伊藤勇大が恋活に本気になるまで

「体育会系男子の恋活 野球選手・伊藤勇大の場合」プレリュードSS

 ホームゲームが開催されるスタジアムの空は雲一つなく晴れていた。

 勇大は空を眺めながら、スタジアムDJの声を聞くともなしに聞いていた。選手紹介のコールにファンたちの歓声が響く。デビューした時、その歓声の大きさにプロだと実感したのを覚えている。声が振動となって体を震わせるのだ。

『伊藤勇大――――――――――ィィィイイイイイイ!』

 拍手や鳴り物、歓声が降り注ぎ、それに手を上げて答える。

 デイゲームの試合は家族連れが多くなる。勇大はぐるりと観客席を見回し、小さい手をブンブンと千切れんばかりに振る子どもを見つけると、手を振り返した。

 自分も子どもの頃、プロ野球の選手はヒーローだった。だからこそ、こうしてファンである子どもたちへの対応は大事にしたいと考えている。

『では、試合開始前に、記念セレモニーを行いたいと思います』

 さきほどまでアナウンスで会場をあおっていたスタジアムDJが、アナウンス調でそう告げたので、球場スタッフの指示の通り、目深に帽子を被ってフィールドに出る。

 甲子園での好成績をひっさげ鳴り物入りで入団した勇大は、先日アウェーゲームで通算200本ホームランの記録を達成した。

「通算、200本塁打、おめでとうございます!」

 応援番組の女性キャスターが、横断幕の前で勇大を祝福する。勇大は微笑して女性キャスターの横に立った。マスコットキャラクターの着ぐるみが大きく拍手すると、スタジアムが拍手で包まれる。

 監督から大きな花束を渡され、監督、マスコットと写真を撮る。一斉に焚かれるフラッシュの音。強烈な光の波。

 その2日後――。

 まだ偉大な記録の余韻が残る中、勇大は怪我をした。守備練習の途中、ジャンプして捕球したそのすぐあと、そばに別の選手の影が見えた。咄嗟だった。空中で体を捻り、なんとか避けて着地をする。

 しかし、それが仇となった。

 着地の衝撃は、勇大が想定していたものよりも大きかった。耳元でブチリという音がした気がする。

 足をついた途端崩れ落ちた。痛みに呻いて動けない。チームメイトの心配した声が遠巻きに聞こえる。

(まずい、これはイった――っ)

 シーズンは折り返しすぎ、短くはない野球人生で分かっている。

 この怪我でこのシーズンは棒に振った、と。


 体に走る痛みに目が覚めた。見上げる天井はここ数日間眺めている病室のものだ。額に滲んだ脂汗を拭く。

 あの練習中の事故の診断結果は『左膝前十字靱帯損傷』。リハビリを含めて8か月の診断が降りた。選手生命にかかわるほどではない怪我だが、しばらく戦線離脱する。

「……クソッ」

 28歳、野球人生で一番脂ののっている時期だ。

 ベッドを殴りつける。込み上げてくる憤りを、思いっきり吐き出せればすっきりするだろうか。ただそれは勇大のプライドが許さなかった。

 病室にはたくさんの花や、いち早くファンから送られてきた千羽鶴が飾られている。

 恋人が一度、見舞いに来た。モデルの彼女は試合の前後、撮影の予定が目白押しで見舞いに来るのも遅かった。そんなことを気にする勇大ではなかったが、数日後、ファンからその事をSNSでなじられたと電話がかかってきた。所属している事務所にもクレームが入っているらしい。

 電話越しに彼女は泣いていた。

 ――私ではあなたを支えられない。

 そんな誰かの受け売りのような言葉を言ってほしいわけではなかった。支えてほしいわけでもなかった。勇大はストイックだ。誰かと自分を比べたことはない。それは他人に対してもそうだった。一番のライバルは昨日の自分だと信じて切磋琢磨できる男だった。

 どれだけ気にするなと声をかけても、彼女の心には届かなかった。

「お袋にいてもらえばよかったか」

 入院当日、遠方から看病のために母親が駆けつけてくれた。しかし、翌日には仕事もあるだろうからと勇大自身が帰した。

 看護師やチームスタッフの手助けがあるものの、不自由には変わりない。凝り性でもある勇大は食生活から生活習慣にいたるまで、全て決まったやり方があった。食器から食べるメーカー、購入先までこだわり抜いているのだ。恋人との連絡が途絶え、すぐにそういったものは諦めざるを得なくなった。

 彼女の言葉を繰り返し夢に見た。

 ――私ではあなたを支えられない。

 支えてくれる存在。

 今まで自分の人生にそんな存在を望んだことはない。勇大はひとりでも生きていけると思っていた。実際、どれだけ浮名を流そうと、彼女は彼女、自分は自分でしかなかった。だからこそ、別れたいと言う彼女を追うことはしなかったのだ。

 それでも、じりじりとベッドの上で過ごしていると、支えてくれる存在をどこかで期待している自分がいた。キャリアへの焦りや体力の衰えに対する絶望を吹き飛ばすような気丈な明るさを渇望した。そう思うたび、自分の弱さを打ち消した。

 実際のところ、いつもなら難なくこなせる自己管理やトレーニングにすら体力を消耗している。

 そんな自分を今はまだ認めたくなかった。

 仕方なく、ベッドサイドに置いてあるスポーツ新聞を手に取る。どんな時でも野球の情報を入れないと落ち着かない自分はただの野球バカなのかもしれない。

 適当に広げたひとつの記事が目に飛び込んでくる。

「――……恋活?」

 でかでかとしたピンク色のレタリングが紙面に踊っていた。

 ――恋愛が人生にいろどりを与え、豊かにする。人生にはロマンスが必要。

 いつもなら考えもしないことだった。

 恋愛が自分に何を与えるか。

 今までの恋愛が自分に何を及ぼしてきたか。

 過去にも未来にも何もない――そう結論を出すと勇大は底なしの闇に引きずられるような心地だった。


 8か月と言われたのならば、半年で治してやる。

 そう思って、医師の指示を守りながら、復帰を目指してリハビリに励んだ成果か、復帰はシーズンをまたいですぐに可能になった。およそ半年と少し、ほぼ目標通りだった。

 その復帰後、大事にしていた腕時計が停まっていることに気づいた。

「縁起悪いな」

 腕時計を集めるのは趣味だ。コレクションの中でこの時計は一番気に入っている。ブランド物ではあるものの、値段は他の時計より安い。ただし、プロになって初めてのホームラン記念に買ったものだ。ゲンを担ぐときはこれと決めていた。

 ネットで調べてもその針は動かず、勇大の手には負えなかった。怪我と一緒だ、下手に素人が手を出すものではない。でも、メーカーに送り返して修理してもらうのも面倒くさい。

 そんな時、よくランニングをする通りにある、時計店を思い出した。

 いわゆるセレクトショップというのだろうか。大抵客はまばらだが、品揃えにはセンスがありそうな店構えだった。時計店には珍しく、頻繁にショーウィンドウが変わるのも気になっていた。調べてみると、どうも腕がいいらしい。

 念のため変装をして、その時計店に持ち込もうと家を出た。

 落ち着いた店内のカウンターでは女性が何か書き物をしている。いつもショーウィンドウ越しに見ていた女性だ。

「すみません、この腕時計の修理をお願いしたいんですが――」

 清潔感のある服装とメイク、綺麗にまとめられた髪。飛び抜けて美人には感じなかったけれど、目が合った瞬間、気になると思った。

 この時計店は彼女の手で管理されている――そう直感的に感じたのだ。その世界観に逸脱することなく本人が存在している。それは個人店にしては凄まじいプロの仕事ではないだろうか。

 陳列している時計の趣味も想像以上にいい。聞くと、ひとつひとつ、陳列している時計のバックグラウンドを語ってくれる。このレベルの時計になると、機能ではないことを知っているのだ。

 この女をものにしろと雄の本能が囁く。

 一週間後、彼女にまた会える。


*  *  *  *  *  *


 約束の一週間後は練習していればすぐだった。

 女優もモデルもアナウンサーも見てきた。ただ、こんな時計の針が動き出すような感覚は味わったことがない。

 彼女はあの日と同じくカウンターにいた。

 勇大が店内に足を踏み入れると、彼女が顔を上げて微笑みかける。営業スマイルだと分かっていても、勇大は自然と微笑み返した。

 修理を終えて戻って来た時計を見て心が決まった。

 ――恋愛が人生にいろどりを与え、豊かにする。人生にはロマンスが必要。

 病室のベッドの上で見た新聞記事の言葉を不意に思い出した。

 こんなに綺麗にクリーニングされ、まるで時を戻したような輝きの時計を見て。自分の人生の可能性を無邪気に信じていたあの頃の心も戻って来た。

 時計の針がまた動き出す。


*  *  *  *  *  *


 成功するには、一にも二にも、努力と自分が成功者になると信じることが重要だ。

 そのことを疑ったことはない。その感覚は最近、日増しに強くなっていく。

「ただいま」

 明るい部屋に帰る日は、駐車場からの距離も遠く感じる。練習で疲れた体でも、エレベーターを待つのがもどかしくて階段を駆け上がる時があるほどだ。

 おかえりなさい、と優しい声がする。

 電気のついた、暖かな室内。12月の外から帰ってくると、この温度はあまりにも心地よい。リビングからパタパタと駆けつけてくる足音に、両腕を広げて待ち構える。

 いつも、彼女は勇大の腕にすぐに飛び込んでこようとはしない。そのつつましさが愛らしくて、細い手首を掴むと両腕に抱きかかえる。抱き上げてキスすると、朗らかな笑い声をあげた。この明るさが勇大は大好きだった。

「いい加減慣れろよ」

 腕の中で、すぐにもぞもぞと身じろぎする体をより強く抱きよせる。

「俺のパートナーなんだからさ」

 抱き上げたままリビングに戻っていく。未だ気恥ずかしそうにしながら、彼女は勇大の首の後ろに腕を回した。

「今日は仕事、早番だったんだろ?」

 遅番の時間では、練習が終わる時間よりも遅い帰宅だ。

「ん? スーツ? ああ、球団が契約してるメーカーのスーツなんだ。シーズンごとにオーダーメイド。似合うだろ?」

 シーズンが終わってひと月経ったこの時期、多くの選手たちがピリピリする。彼女が勇大のパートナーとして過ごすシーズンオフは今回が初めてだ。

 野球を好きでもなければ分からないだろう――契約更改の時期に差し掛かり、チームを離れる選手と残る選手に別れる。そして、残った者は球団と翌年の待遇について話し合う期間に当たる。

 怪我からの復帰明けのシーズン。その成績を年俸という形で評価される。

 そして、今日はその話し合いの日だった。

「夕方のニュース見てないな?」

 彼女は首を横に振った。SNSすら開いていなかった。結果はふたりでと約束していたのだ。

「よし、テレビつけよう」

 すぐにニュースが流れた。

「年俸、アップした。去年半分リハビリで潰したけど、きちんと治して後半戦で主力に戻ったから」

 ぱぁっと表情を華やがせた彼女に、勇大はキスを贈る。

「お前のお陰だ。サポートがあったからだ」

 唇が重なりそうな距離で囁き、不敵に笑う。

「――ありがとう」

 リハビリ明けのシーズンで年俸があがるなんて思っていなかった。メディアに出ている推定年俸よりもさらに高い年俸が提示され、勇大にとってはまたとないチャンスだと痛感した。

 あの怪我で終わったと思った。だが、やはりまだまだ風は吹いている。勝ち残るためにまだこの道は続いている。