早乙女隼人が恋活に本気になるまで
「体育会系男子の恋活 大工・早乙女隼人の場合」プレリュードSS
お世辞にも、器用だとは言えないことは分かっていた。それでも自分なりに向き合い続けたその結果を隼人は呆然と受け入れることしか出来なかった。
「ただいま」
玄関を開けると、弟が台所からアイスをくわえて自室に引っ込むところだった。
「おかえり、兄ちゃん」
「ああ」
「デートだったんじゃないの? 顔、怖いけど」
じっと弟が隼人を見ている。
隼人は苛立ちと焦燥を隠せないまま、上がりかまちに立って弟を軽く蹴った。
「暴力反対」
「兄貴をからかうな」
はぁ、と深いため息が出る。それを聞いて、弟はさっさと部屋に引っ込んでしまった。
(俺はずっと、何を見てきたんだ)
階段を上る。
(まさか、フラれるとはな……)
三年目の記念日、そろそろ、という思いが隼人にはあった。向こうももうすぐ三十歳になるし、責任を持って。
――ねえ、責任って何? 別にあたし、そういうの求めてないから。
最後、はっきりと突き付けられた。
器用ではない。それでも誠実に生きてきた。だが、この結果はどうだ?
責任。その言葉の意味を考えなければいけないのかも知れない。
早乙女建設の跡取り息子として生まれて、すぐそばには工具や機材があった。子どもの頃のおもちゃは、大抵祖父や父が作ってくれたもので、それが隼人の自慢だった。
母は会社の事務をしていたので、祖母が隼人たち兄弟の面倒をみた。自然と、隼人も弟妹の面倒をよくみる、寡黙な少年に育った。
父親譲りの厳めしい表情は、黙っていると目を逸らされたり「怒ってる……?」と尋ねられることもあった。
ただ、そんな自分の不器用さを一部の女子が気に入ったらしいということは、小学校高学年の頃に気づいていた。クラスで一番モテるサッカー部のようには騒がれないが、時折じっと物陰から見てくる視線や、そっと忍ばされたラブレターは途切れることがなかった。
はじめは怖い人かと思ったけど、という枕詞は隼人を表す代表的な言葉になる。
別にそれでもいいと思っていたのだ、今までは。分かってくれる人が分かっていればいいと……――。
* * * * * *
そんな矢先のことだった。
「おい、ちゃんと確認取ってから動け、気をつけろよ!」
現場で声を張り上げながら指示をしていると、作業着に突っ込んでいた携帯が震えるのが分かった。
「ちょっと持ち場離れます」
近くにいた年配の従業員に声をかけてから、電話を受ける。音が入らないように速足で現場から離れた。
「母さん? どうした?」
『お兄ちゃん、どうしよう!』
「落ち着けよ。何?」
『お、お父さんが、お父さんが倒れたって!』
その言葉で頭が真っ白になった。
だから、自分がどうやって現場から病院に駆けつけたか覚えていない。隼人の記憶が戻ったのは、駆けつけた病室でのことだ。
父は、リクライニングを起こしたベッドに寄りかかり、母の剥いた林檎を食べていた。顔色は悪くはなさそうだ。
「――……ッ、て……、ンだよ……」
膝に手を当てて、完全に上がった息を整える。
「隼人、お前、現場大丈夫なのか?」
「親父こそ、倒れたって聞いた」
隼人の声に責める色が滲む。
父はけろりとした顔で隼人を見る。
「見ての通り、ぎっくり腰だ」
「お兄ちゃんも知ってるでしょ? お父さん風邪も引かない人だもの。いきなり倒れたって会社に電話がきてびっくりしちゃったの」
「それならそれで連絡してくれ」
父の顔を見て安心した。ともすれば怒りに変わりそうな感情を、深く息を吐き出してやりすごす。
「大丈夫だ。この仕事してたら、腰やっちまうこともあるだろ」
がはは、と笑い声をあげる父に、母も「そうよねえ」と同調する。
(こっちは頭が真っ白になるくらい動揺したっていうのに……)
自分が32歳になったということは、両親はそれだけ年を重ねたということだ。何かあったかも、の『何か』は非常に重い現実になりつつある。
「おい、隼人。お前、来てたのか」
しわがれた声に振り返ると、祖父が立っていた。
「先生が話があるって。お前でもいいだろ、来い」
祖父は仏頂面のまま、顎で隼人を促した。のんきに手を振る両親に見送られて、祖父の後を隼人は続いて歩いた。
* * * * * *
「診断としては急性腰痛になりますが、検査の結果軽度の椎間板ヘルニアの疑いもあります」
「急性腰痛……ヘルニア、ですか」
祖父が黙り込んでいるので、隼人が返事をする。
「この部分ですが、神経が少し障っているように見えます。今回倒れたのはぎっくり腰が原因です、ただ恐らく、今後悪化していくと思います」
「父は大工をしてるんですが」
「年齢から考えましても、同じ生活環境では再発すると思います。それにヘルニアも進行していくので」」
言外に医師は引退しろと勧めていた。
命は無事だ。ピンピンしている。
けれど、今までずっと大工として働き続けた父に仕事を引退しろだなんて、どう伝えたらいいのだろう。
祖父も隼人も、ただ「ありがとうございます」と頭を下げることしか出来なかった。
黙り込んで病室に戻る。扉を少しだけ開く。室内の様子が見えた。カーテンの隙間、父の表情は初めて見るほど曇っていた。
(あんな姿、はじめて見た……)
父も自分の状態に気づいているのだろう。家族に心配をかけたくないのだ。
「お前、早く一人前になれ」
隼人の背後から祖父が声をかけた。
「ああ、分かってる」
分かってる。
隼人はゆっくりと頷いた。
* * * * * *
数日後。父は依然入院したままだ。
「お兄ちゃん」
帰宅すると妹に捕まった。
「何。風呂入りたいんだけど」
「お兄ちゃん、お見合いして?」
「……は?」
妹が隼人にお見合い写真を叩きつけた。古風なきちんとしたお見合い写真だ。
「何だこれ」
「みんなで話し合ったの。お父さんももう前みたいには仕事できないでしょ? だから」
「待てよ。親父はまだ退院もしてないのに」
「この前の彼女、ダメだったんでしょ?」
「それは」
「お母さんの知り合いでいいお嬢さんなんだって。ね」
ぐいぐいと押し付けられる写真を手に取ると、それを了承と取ったらしく、妹はにっこりと笑った。
「お兄ちゃん、きっといい旦那さんになるよ。怖いのは顔だけだから!」
「お前な」
隼人が反論しかけると、妹はやや真面目な表情になった。その顔が意外で隼人の言葉が止まる。
「なんかさ。みんなから頼りにされちゃって大変だよね。ごめんね。でも、私お兄ちゃんにはちゃんと幸せになってほしいって思ってるから。お見合い、応援してるからね」
いつも明るく軽い調子の妹の見せたやや真剣な一面に、元々無口な隼人はますます返す言葉が分からなくなった。
だから次に隼人の口から出たのは、
「風呂」
そんなフレーズだった。
妹がプッと噴き出す。
「あー、はいはい。お風呂入るとこだったんだよね! じゃ、お見合い写真ちゃんと見ておいてよ!」
バタバタとリビングへ戻る妹の背中を見ながら、隼人は困惑しつつ首元を少し掻いた。
「――参ったな……」
恋人と別れたばかりだというのに、まさかお見合いを持ってこられるとは。
それだけ父のことが皆不安なのだ。頼りない自分が歯がゆくもあった。
* * * * * *
――そんな日から数年後、祖父の代からの大事な顧客から注文が入った。
その邸宅――まさに邸宅と言った方が良いような瀟洒な洋館――は、かつて祖父が設計から熱心に話し合い、こだわりにこだわったお屋敷だ。工務店の一番目立つところに外観の写真が飾られているほどの上客で、定期的に「あそこに手を入れたい」「この設備を取り替えたい」と依頼してくれている。
今回は家の一部の改築と庭に温室をこしらえたいとのことで、祖父が久々に図面から引いた。
そして今日から、隼人も屋敷の改築工事に参加する。父の代わりだ。――というのも、医者に仕事の引退をすすめられたにも関わらず頑固な父は決して首を縦に振らず、結果また腰をやってしまったせいだ。
初めてくる現場を隼人が確認していると、背後からふたり分の足音が聞こえてきた。
振り返ると、祖父とひとりの女性が歩いてくる。
「おう、隼人。来たか」
「ああ」
短く返事をしてから、祖父の隣の女性へ頭を下げる。するとすぐに祖父から、この屋敷の奥様だと聞かされて、隼人は改めて深めに頭を下げた。
母に何度も釘を刺されていたのだ。お兄ちゃんお父さんにそっくりで顔が怖いんだから、にこやかにね! 上得意さんなんだからね! と。
「いつもありがとうございます」
「いいえ、こちらこそ、いつもたくさん注文してしまってごめんなさいね」
気のきいたことも言えず、隼人はペコリと頭を下げた。
まだ奥様以外に挨拶出来ていない。
(こんだけデカい家だし、忙しいんだろうな……。子どもはひとりだって言ってたか……。ちゃんと挨拶しないとな)
ただの義務感だった。
大学生の娘さんがいると聞いていたし、大学生なんて弟たちより年下だ。
だから、自分でも戸惑った。
庭先にぽつんと立っている、少女とも女性とも言えない彼女を見た瞬間――、どうしてこんなに心臓が跳ねるのかと。
――ご苦労様です。
例えるなら、まじりけのない白。
てらいなく真っ直ぐに向けられた瞳に緊張して、隼人は反射的に頭を下げていた。
「ここの、娘さん?」
彼女が頷く。
「今日から俺も改築工事に入ることになりました。親父の腰がちょっとアレで。あ、俺、息子です」
彼女は心得ていたのか、微笑んで会釈を返してくれた。
そのまま家に入ろうとする彼女を思わず呼び止めて、
「あー……っと……、いや、なんでも。作業、戻ります」
と隼人自身、自分が何を言っているか混乱し、慌てて手を動かし始めた。
それでも、ちらりと玄関をくぐるその華奢な背中を見ることを止められなかった。
隼人は口の中がカラカラに乾いていくのが分かった。ゴクリと唾を飲む。
(……俺の)
俺の?
(俺だけのものにしたい――)
酩酊感に似たその強烈な感覚を味わったのは、この時がはじめてだった――。