早川駿介が恋活に本気になるまで
「体育会系男子の恋活 配達ドライバー・早川駿介の場合」プレリュードSS
男の人の怒鳴る声っていうのは、本人がどれだけ抑えたつもりでも外に響く。荷物を持った駿介の手が思わずびくりと跳ねた。
(喧嘩? 大丈夫かな……)
配達ドライバーをしていれば、配達エリアの家をいやでも覚える。その家の大体の生活環境や、状態も分かってしまうし、玄関はその家を表すというだけあって玄関先の受け渡しだけでも雰囲気はかなり伝わるものだ。
(この家、今日がはじめての配達……だよな。前住んでた夫婦は引っ越しかぁ、子どもが大きくなってきたからここじゃ手狭になってきてたとか)
そこまで考えて頭を振った。そんなことをつらつら考えている暇があったら、さっさと仕事をこなすほうが大事。
改めて伝票を見て新しい住所と名前が間違いないことを確認する。その間にも、扉の隙間からは男の人の低い声が響いていた。奥さんらしき人が返す声はほとんど聞こえない。ファミリータイプなだけあって防音性も高いせいか女性の声はあまり通らないのかもしれない。
ま、このくらいの修羅場は慣れている。先輩なんて刃傷沙汰というところに出くわしたことがあるというんだから、それに比べればなんでもない。
ふっとひと息吐いてチャイムを押す。
沈黙。
「こんにちはー! お届けものでーす!」
あまり聞こえないだろうと思いつつ、再度チャイムを押しながら明るい声を上げた。
すると少しして、扉の向こうから物音が。鍵を開ける音だ。
「どうも! お荷物です」
扉が開くのに合わせて笑顔で伝えた。
顔を出したのは駿介より年上だけれど、まだ若い女の人だった。申し訳なさそうにサインをする目が真っ赤なのに一瞬気を取られてしまう。目はすっかり潤んでいるのに、涙は零れ落ちない。頑張って笑顔まで浮かべて対応してくれている。
廊下にも子ども用品は出ていなかったし、玄関にある靴は男女一足ずつ。ちょっとそこまで、と引っかけるようなサンダルの類もちゃんとしまってある。綺麗に整えられた玄関に、涙を堪える奥さんがなんだかすごく不釣り合いに見えて、いつも通り受け渡しをしながらも、家の奥にいるだろうこの人を怒鳴っていた男の存在が妙に気になって仕方がなかった。
「ぷっ、はーっ! 仕事終わりのビールうまーい!」
配達を全て終えて帰宅し、遅めの夕食代わりのビールと唐揚げをぺろりと平らげる。
「あー、なんかさみしいなぁ~つっても飲みに出るとかもなぁ、仕事あるしなぁ」
深酒をしたら、下手をすれば翌日の運転が出来なくなる。それは絶対に避けなければならない。職業柄が平日休みのおかげでサラリーマンの友人たちとは時間が合わず、いつの間にか一人酒が定着していた。
「人の作った唐揚げとポテサラでビール飲みたいなぁ……」
最近のコンビニの総菜は馬鹿に出来ないくらい美味い。でも、そうじゃない、人の作った温かさみたいなものが無性に恋しい。
「あの人の唐揚げ……食べてみたいな……すげー綺麗だったもんなぁ、玄関。廊下とかも、ちゃんと掃除出来てたし、きっと料理も美味いんだろうなぁ」
今日初めての配達先で出会った、夫婦喧嘩中の奥さん。家事は完璧そうで、身なりだってすごくきちんと綺麗にしていた。
「……なのに、何が不満なんだろうなぁ。家もあんなに綺麗にしてもらってて、優しそうな人なのに……」
誰にも聞かれる当てのない独り言に、思わず首を振った。
あの家はそれからちょくちょく配達するようになった。そして、気づいたことがある。
――この家は綺麗にしてあるんじゃない、綺麗にしているんだ。
微妙なニュアンスの違いだけど、ひしひしと感じる。夫婦というよりも他人に近いような緊張感が満ちている。
夫婦ふたり暮らし、引っ越して間もない、なのにこの空気感。
(……うまく行ってないのか)
あれ以来喧嘩を聞くことはなかった、なんせ靴はいつも奥さんの分しかない。
けれど、泣きはらした目でも微笑みながら応対をしてくれた彼女の健気さに、毎回荷物がある度に「今日こそ状況が改善されていればいいのに」と願わずにはいられなかった。
「こんにちはー! 宅配です」
今日も靴は一足、男性の靴は最近見る回数がぐっと減った。きちんとピカピカに磨かれた革靴は今どこにいるんだろうか。
ほぼ無意識にそんなことを思いながら駿介がサインをお願いしようとすると、彼女は何か言いかけてからすぐにくるりと踵を返した。――ちょっと待ってください。とだけ伝えてリビングのドアに消えていく。
「あれ、ペンならありますよ!」
その背中に声をかけたけれど、どうも違うようだ。
(どうしたんだろう?)
不思議に思いながら待っていると、彼女はトレーを片手に戻って来た。
その上には冷たいお茶と飴が乗っている。
「え? 俺に……、ですか? やだな、疲れてるの分かっちゃいましたか?」
最近どうもだるいとは思っていたけれど、まさかお客様に心配されるとは。
「ありがとうございます! 甘えて、いただいちゃいます」
よく冷えたお茶は体にすぅっと入って行く。
「あー、生き返りました!」
くすくすと奥さんが笑う。奥さんは真っ直ぐな目で駿介を見上げた。
――羨ましい。
驚いて何度も瞬きをする。
「うらやま、しい……? 俺がですか?」
こくりと頷いた。
彼女はぽつりぽつりと、元々ずっと仕事をしていたけれど結婚を機に退職し、引っ越したのだと話してくれた。いつも明るい駿介に救われている、とまで。
「いやいや、俺、仕事柄いろんなお宅の玄関にお邪魔しますけど、お姉さんのこと尊敬してますよ! いつもきちんとしてて、家だって綺麗だし。素敵な人だな、って……」
勢いよく回っていた舌が、ぴたりと止まる。
彼女が真っ赤になっていたのもあるし、駿介自身『お姉さん』と呼んでしまったことに気づいて動転したからだ。
「あのっ! す、すみません……! 変な意味とか深い意味に取らないで下さいね!」
彼女は俯いたままだ。細い首筋が、内側からジワリと赤らむ。
ごくり、と唾を飲んだ。さっきお茶をいただいたばかりだというのにやけに喉が渇く。
「えっと、お荷物、ここに置いておくんで。サインを、いただけますか?」
ギクシャクとしながらサインをもらい、逃げるように玄関を後にした。
あの玄関にいると彼女がうんと遠く感じて、思わず引き寄せたくなる。そんな自分を戒めるように、駿介は階段を駆け下りた。
――気づけば、駿介の目の前には見慣れたチャイムがある。当然のように押すと、雷鳴のような音が響いた。
ゆっくりと焦らすように空いたドアから、彼女の手が見えた。
今掴まなくては逃げられる。咄嗟にそう思い腕を掴んだ。びくり、と彼女の肩が大きく揺れる。
海のように澄んだ瞳に駿介の獰猛な目が映り込む。それでも、衝動は止まらなかった。腕の中にその体を閉じ込めれば、まるでずっと抱き締めていたかのように馴染んで、駿介の中の渇きが癒える。
だめ。
そう言ったのはどちらだろうか。
だめ。こんなことは許されない。
震えていたのはどちらの手だろうか。けれども、唇を一度重ねてしまったら、言葉は意味を失った。彼女をぎゅうぎゅうと強く抱き締めて、何度も何度もキスをする。徐々に深くなるキスに、拙く彼女が応えてくれる。
だめだ。これ以上はだめだ。明確なラインが見えている、警告灯も光る。仕事でいつも訪れる玄関、綺麗に磨かれた革靴を踏み荒らし、そっと彼女を廊下に押し倒す。蛍光灯の落とす影が、駿介と彼女をくっきりと分ける。
俺なら、俺ならこの人を悲しませたりなんてしない――
彼女のエプロンを勢いよく脱がす。そうしてまさぐる彼女の体は隅々まで柔らかい。白い肌に触れていくと、彼女の息も上がり始める。
熱い。すごく、熱い。
彼女に触れて癒えたはずの渇きが、ぐっと強くなる。胸が痛い。その痛みを忘れたくて彼女に縋りつく。それでも、どんどん深みに進んでいく。お互いの素肌と素肌を触れ合わせ、色んなことを無視するように口づける。
早く、と彼女が求める気配に背中を押される。だめだなんて考えはもうなくなってしまう。欲しい、もっともっと、深くまで触れたい。ふたり分の上がった息が交わる。駿介は猛った自身を、しっとりと濡れた彼女のそこに宛がった。
深い嘆息に合わせて、腰を強く穿った。
――ところで、目が覚めた。
「……おいおい、マジかよ……」
この感触には覚えがある。中学生くらいの頃、時折夢に影響されて夢精し、その不快感で目覚めた。体には独特の高揚感が残っているのに、下着は湿ってべったりと肌に張りつく。夜中にこっそり誰も起きてこないよう祈りながらパンツを洗う、あの落ち着かない感覚。
「この年で……あー、俺、あの人が好きなんだな」
なんて不毛なのだろう。
あの人は(いくら不仲といえども)人妻で、願うべきなのは彼女が旦那さんと幸せになることだ。駿介はたまに来る配達業者のひとりにしか過ぎなくて、彼女の人生に関わることはない。
そう、それでいいのだ。
別に夢を見たせいではない。決して。あらゆるお客さんでも同じことをするかと言われたら、正直しないけれど、別に好奇心とかそういうものではなかったはずだ。
近くにスーパーがないこのマンションでは、重い食品の詰まった配達はままあることだ。生の食品はずっしりと重い。
彼女の後ろに続いて重い荷物をキッチンに運ぶ。玄関と同じく、品よくきちんと整えられたふたり暮らしの家なのに、どこかよそよそしい室内。駿介は内心で臍をかんだ。
「ここに置きますね。よいしょっと」
荷物を下ろした時、テーブルの上に置かれた朝食が目に入ってきた。主菜とサラダと……と栄養バランスをちゃんと考えられた朝食が一膳ぽつんと置いてあった。
彼女のかと思って間の悪さを謝ったら、彼女は苦笑しつつ「夫が食べなかった分」と答えてくれた。
(……俺が食べます……って、言えたら……)
自分のために朝早く起きて作ってくれているなんて、想像もしていないんだろう。
「旦那さんも贅沢だな~。こんな美味そうな朝ご飯、食べていかないなんて」
俺なら。
俺なら。
俺なら?
「やっぱり、上手くいってないんですか?」
彼女が大きく目を見開いた。
ああ、やっぱりそうか。
「だからそれなら俺……っ!」
音を結んでから、駿介は自分の口走ったことを理解した。
彼女も驚いてあとじさりする。
「――……っ」
それ以上何も言えなかった。頭は真っ白になって、逃げるように家をあとにした。
あの家にしばらく配達がなかったことを、はじめは安心した。
(次こそはちゃんとお客さんとしての線引きもして、迷惑かけないように。……そっと片思いするのは自由だしな)
そう、駿介の気持ちに整理がついた頃。久しぶりにその住所を見た。そして、ふと違和感で立ち止まる。
「……誰だコイツ」
知らない名前。苗字も違う。けれど、たまに違う名前で荷物を届ける人もいるので一応持っていく。
――違う。
すぐに分かった。玄関の前に三輪車が置かれていた。
違う。――彼女はもうここにはいない。自分の配達するエリアのどこにも彼女はいなくなった。
(謝ることも、出来なかった……)
思い出せるのは、あとじさりする彼女の驚いた表情だけ。恥ずかしいような、怒ったような、どこか安堵したような、複雑な様々な感情の交じり合った表情。
「……今、何してるんだろうな」
あれから気づけば一年が過ぎ、普段は忘れていられるようになった。
けれど、不意に浮かんでくる記憶はどうやっても消し去れない。何度も彼女のことを忘れようと心に決めるのに、思い出す度に気持ちは結晶化して宝石のようにキラキラと輝くようになってしまった。
朝になると、あの朝食を思い出してしまう。
『今日のあなたは、恋愛運が好調! 思わぬ出会い、素敵な出会いがある予感! ラッキーアイテムは赤い靴下!』
「素敵な出会いぃ?」
朝の準備をする最中耳に飛び込んできた星占いにため息を吐きつつ、手は一足だけ持っていた赤い靴下に伸びていた。
素敵な出会いなんて、配達していて早々あるわけがない。
決まった時間に出社して荷物を積み込んで、配達に出かけて、再配達があればその対応をして、一日は過ぎていく。先輩の穴埋めで法人担当になり時間に余裕が出来たが、更に出会いは減った。
「……次は、この会社、か。はじめてのところだな、ちゃんと挨拶しよ」
よく磨かれたガラスのドアから、オフィスが見える。
「こんにちはー! お届け物です。この丸いとこに、ハンコお願いしま……」
対応に出てくれた女性の指先を見て、ピンときた。
まさか。
そんな。
思わぬ出会い、素敵な出会いがある予感、ラッキーアイテムは赤い靴下。
(嘘だろ……)
信じられなくて顔を上げる。
やっぱり、あなたは……――
本編へ続く……