福井 理が同棲に本気になるまで 『高級チョコレートとペアリング』
体育会系男子の同棲 インストラクター・福井 理の場合 プレリュードSS
「また体脂肪率が下がってきてますね。……うん、いい傾向です! 頑張りが出てますよ! 自信を持って」日曜のスポーツジム。福井理は紙挟みに挟んだカルテを元に、顧客に笑顔を向ける。
その顧客――三十代の専業主婦ははにかむような笑みを浮かべた。
「あ、ところで、今週からご予約の時間を変更されていますが、お仕事か何か始められたんですか?」
ふと気になって聞くと、彼女の表情が曇った。
彼女はためらいがちに告げてくる。
「実は……ちょっとした問題がありまして……」
個室に移動して聞いた話によると、彼女は同じジムを利用する男性客からつきまといを受けているという。スポーツジムではわりとよくある類いのトラブルだ。
好みの異性が汗をかいている姿は、おそらく多くの人にとって魅力的だ。とはいえ真面目にトレーニングをしに来て異性に声をかけられるのは迷惑だろう。
理としても、相談を受けたからにはなんとかしなければならない。
それで次の週、該当の男性をつかまえた。
「あの、よかったら向かいの喫茶店でお茶しませんか!? ヒレカツサンドが美味いんですよ」
有無を言わさぬ笑顔で誘うと、彼は戸惑いの表情を浮かべながらもうなずいた。
彼は理の担当する会員ではないものの、担当トレーナーから聞いた話では軽々しく女性に声をかけるタイプではなさそうだ。
そして見た目もとても真面目そうだ。
避けられるほど人妻を困らせるなんて、一体何があったんだろうか。
淹れたてのコーヒーとヒレカツサンドの並ぶテーブルで、彼は重い口を開いた。
「ご迷惑をおかけしてしまってすみません……。でも僕も強引にしたつもりはなくて、ただ少しずつ仲良くなっていければと思って……」
本人は反省しているようだしもう問題はないだろう。理はヒレカツサンドの皿を向こうに寄せる。
「食べて元気出してください! きっといい人見つかりますよ! でも次は結婚してる人じゃなく、独身かつフリーの人を狙った方が……」
ところが、ヒレカツサンドに伸ばしかけた彼の手が空中で止まった。
「今なんて言いました?」
「きっといい人が見つかります」
「そこじゃなく、その次です!」
「次は結婚してる人じゃなく、独身かつフリーの人を……」
「…………」
その顔を見てようやくわかった。
「もしかしてっ、気づいてませんでした!? 彼女が結婚してるって」
「はい……。僕はてっきり、指輪してないからフリーなんだと……」
(やっぱりそうかぁ……)なんて不幸な事故だろう。
「結婚指輪、しない人もいるんですよ。最近は買わないカップルも多いみたいですし」
「そうですかぁ……。イヤだなあ、僕ホントうとくて……」
「まあ元気出して! よかったら僕もいろいろ相談に乗りますので」
胸を叩いてみせると、彼の顔にようやく笑顔が戻った。
「頼もしいな……。福井トレーナーにアドバイスしてもらえるなら、次こそはきっと上手くいきますよね」
「ええ、きっと」
彼の実直さを好きになってくれる女性はいる。そう感じ、理も心配はしていなかった。
その一方で、ある不安が胸をよぎる。
(彼女は大丈夫なのかな……?)それは付き合い始めて半年になる恋人のことだった。彼女はとても魅力的で、彼女に惹かれる男性は多いだろうからだ。
目の前にいる彼のような純粋な男が何も知らずにアプローチすることはありそうだし、そうでなくても他の男に奪われることはあるかもしれない。
特に彼女は、理との交際をあまりオープンにしていないようだし……。
(今さらなのかもしれないけど、やっぱり心配だなあ……)会員同士のトラブルはとりあえず解決しそうだが、理の胸には別の不安が残った――。
数日後。その日理は、会社帰りの彼女と会う約束をしていた。
待ち合わせ場所で待っていると、時間ちょうどに彼女がやってくる。
「――お疲れ! 残業は大丈夫だった? 最近、残業続きだって言ってたから」
彼女はニコニコとうなずいた。
「そっか、よかった。無理してないかって心配だったんだ」
電話やメッセージでは密に連絡を取り合っているけれど、数日ぶりに顔が見られるこの瞬間はやはり嬉しい。
「今日は連れていきたいところがあって。雰囲気のいい沖縄料理の店を見つけたんだ。ちょっと歩くけど……」
そんな話をしながら歩きだそうとした時、彼女が手提げの紙袋を持っていることに理は気づいた。かさばる荷物を持たせたまま歩かせるのは悪い。
「それ持つよ」
受け取ってみると、それは女性に人気だという高級チョコレート店のものだった。
「これ、どうしたの?」
聞くと上司からもらったものだという。
確か上司は独身男性だったはずだ。
「なんで? こんな高そうなお菓子……」
何か下心がってのことではないかと心配になった。
「……土産? そっか。……でも……うーん……」
彼女は何も気にしてないようだが、部下への土産でこんな高級品を選ぶだろうか。やっぱり心配だ。
「ねえ、その上司、君に彼氏がいること知ってるの?」
すると彼女は「そんなプライベートなことは話さない」と、不思議そうに言った。
だったらその上司とはあまり親しくないんだろう。少し安心する。
……いや、安心していいのか?
少なくとも恋人がいることは、その上司や周りの人には知ってもらった方がいいのでは。ジムの女性会員のようなことにならないために……。
彼女と並んで歩きながら、理はそんな思いにとらわれる。
ちょうどそこで道の先に、ジュエリーショップが見えてきた。
「そうだ! 指輪買わない?」
彼女が驚いた顔で理を見上げた。
「ペアリングか何かしてれば、彼氏がいるってこと周りに知ってもらえると思って」
店の前にたどり着き、理は早速ショーウィンドウに目を向ける。ここは結婚指輪も扱うような老舗アクセサリーブランドの直営店だが、普段使いのものもありそうだ。
だが彼女の方が遠慮してしまった。記念日でもないのに指輪なんてもらえないと言う。
「ええ……俺が贈りたいから言ってるのに」
(けど、さすがに突然すぎたか。なら今度タイミングを見計らって……)そう思い直し、理はショーウィンドウの前を通り過ぎた。
翌朝のジム。開館前のフロアでカルテの整理をしながら、理は昨夜のことを思い返す。
「福井さん、ため息重いですよ?」
マシンのメンテをしに来た男性スタッフに声をかけられた。
彼とはプライベートな付き合いはないものの、ジム内ではよく話す仲だ。
「すみません、無意識に」
「何かあったんですか?」
「いや、何かってほどのことじゃ……」
話しながら、理は彼が以前、恋人の作った弁当を自慢してきたことを思い出した。
(そうだ。彼ならアドバイスをくれるかもしれない)それで理は話しだす。
「あの、それやりながらでいいんで、ちょっとだけ相談に乗ってくれますか?」
「え、はい、僕でよければ」
彼は意外そうな顔をしながらも、理の話を真剣に聞いてくれた。
話を聞き終え彼は言う。
「えーっと……上司から菓子折りもらって指輪とか重くないですか?」
申し訳なさそうな口調だが、その顔は笑っていた。
「ええっ、そうっすか!?」
「そうっすよ! 福井さんがそこまで惚れ込んでいる人でしょう? ちゃんとした子なんでしょうし、ヤバいなと思ったら、その上司に彼氏がいることちゃんといいますって」
「た、確かに……!」
正論すぎてぐうの音も出なかった。
「ありがとうございます。それ聞いてスッキリしました」
すると彼は笑いながら言ってくる。
「いえ。それより福井さん、そんなに大事な彼女サンがいたんですね! 間違いなくモテそうなのに浮いた話とか聞かないから、掃除のおばちゃんたちがゲイじゃないかってウワサしてましたよ?」
「えええ、そんなことに!?」
話していると、その掃除のおばちゃんたちが来てしまった。
「残念! 福井トレーナーのBL考えるの楽しかったのに」
「え、僕、誰とくっつけられてたのかな? 怖いから聞きませんけど……」
男性スタッフと顔を見合わせ、思わず笑ってしまう。
「っていうか、どこから話聞いてたんですか?」
「彼女が大好きで、誰にも取られたくないってところかしら?」
「えーっと、僕そんなこと言いましたっけ……?」
「でもよかったわ。“みんなの福井くん”が幸せになって」
そこで別のおばちゃんも話に加わってきた。
「で、付き合ってどれくらいになるの?」
「半年になりますね」
「どんな子? 福井くんの彼女なら、モデルさんとかスチュワーデスさんとか……」
それを聞いてもうひとりのおばちゃんがツッコむ。
「スチュワーデスって……。最近はCAって言うんですよ?」
「ええ……、どっちも同じじゃない」
「いや、彼女は普通のOLさんですけど、素直な性格で、すごく頑張り屋で……」
理が発言すると、彼女たちは目を輝かせた。
「そういう子がいいのよねえ! 早く結婚しちゃいなさいよ」
「そうよ、そろそろ結婚の話が出たりする頃でしょう?」
「いや、まだそれは……」
(そっか、半年なら結婚の話が出てもいい頃なんだ……)想像してみると、彼女との生活はとても充実した楽しい時間になりそうだ。
(とはいえ、いきなり結婚なんて言ったら、またビックリさせちゃうよな。とりあえず同棲から?)会館前にしてすでに騒がしいフロアで、理の妄想は膨らむ。
これが福井理が、彼女との同棲を考え始めたきっかけだった
本編へ続く……