伊藤勇大が同棲に本気になるまで 『時を刻む瞬間』

体育会系男子の同棲 野球選手・伊藤勇大の場合 プレリュードSS

 その日伊藤勇大は生まれ故郷の町の、緑豊かなスポーツ公園に立っていた。

 今日ここで、地元の少年野球団が一堂に集うイベントが行われている。勇大はそのゲストだ。

「見て、本物の伊藤勇大だ!」

「テレビで見るよりカッコいい!」

 野球少年たちだけでなく、その保護者や野次馬たちまでもが小さな球場に詰めかけている。

「すみません! サインはまたあとで。これから伊藤選手による子どもたちへのバッティング指導が始まります!」

 会場整理のスタッフが声を張った。

 そんな景色を見渡し、勇大は観客の中にいくつか見知った顔を見つける。

(あいつら……!)

 高校時代、一緒に甲子園に行った野球部のメンバーたちだった。

「おーい、ヒーロー、待ってたぞ!」

 一人が手を振り、勇大もそれに帽子を振って応える。みんなの笑顔が華やいだ。

 プロ野球選手になった今、勇大は球場のヒーローで、そう呼ばれるのにも慣れていた。

 けれども彼らに呼ばれるのは照れくさい。

 ここは“ヒーロー”伊藤勇大が、ただの伊藤勇大だった頃の場所だ。

 懐かしさと、それと同時にある種の甘酸っぱさが胸に満ちる。

「いいスイングだ! 次はタイミングを意識して。……君は体格がいいな。ポジションは? ……そうか、自信を持って頑張って」

 子どもたちのバッティング練習を見ながら、勇大は心の中で思い出を振り返った。


 イベントは日暮れ前に幕を閉じ、夕方過ぎ、勇大は昭和の香り漂う居酒屋の座敷にいた。

「我らがヒーロー、伊藤勇大の帰還を祝って、カンパーイ!」

 記憶より二回りは太った野球部部長がジョッキを掲げる。

「カンパーイ!」

 声を合わせるみんなも一様に年を取っていた。

「何年ぶりだ?」

「高校卒業以来だから、約10年ぶりだろ」

 ジョッキに口をつけながら、そんな会話が始まる。

「同窓会の時に会わなかったか?」

「同窓会は……勇大が帰ってきてなかったもんな! その日はお前、テレビのクイズ番組に出てた!」

「そうだったか」

 勇大自身より、仲間の方が覚えていてびっくりした。 

「10年か、どうりでみんなオッサンになったわけだよな」

 しみじみ言うと、仲間たちから笑われる。

「俺たちもう30だぞ! キャッチャーの田中なんて、先月三人目が産まれたらしい」

「そういうお前も春には二人目が産まれるんだろ? うちは去年嫁サンもらって家建てて、子どもはこれから」

 いつの間にかみんなそれぞれの家庭を築いていた。

「30っていったらそういう年か」

「そういう年だよ! 今日は飲みに来れたけど、普段は嫁さんの尻に敷かれて大変だぞ~」

「そうそう! 俺も人気者のお前がうらやましいよ」

 向かいのふたりがおどけてみせた。

「いいじゃないか。結婚、子ども、それに家?」

 その中で、勇大にあるのは家くらいだ。それも立地で選んだマンションと、気分で選んだ別荘。どちらも家族との幸せな暮らしを想定したものじゃない。

 もちろん勇大は、自らの力で打ち立ててきた記録と、プロ野球選手という仕事に誇りを持っている。だがそれは仕事の話で、プライベートはまた別だ。

 結婚、子ども、自分で建てた家。おおいに素晴らしいものだと思う。

「本気で言ってるのか? 子どもはかわいいけど、結婚なんてある意味墓場だぞ?」

「そうだ! お前はモテるんだから今のうちに遊んどけ! 俺がお前だったら、美人女優ととっかえひっかえ付き合うな!」

 旧友たちは好き勝手なことを言っている。

「美人女優をとっかえひっかえ、って」

 ここが都心のバーなら周囲が眉をひそめるかもしれないが、のどかな田舎の居酒屋だ。冗談として笑っていいところだろう。

「そこまで女好きじゃない」

「モテるってことは認めるんだな?」

「そうは言ってない」

「言ってるようなもんだろ~!」

 他からも冷やかしと笑い声が起こった。

 チームメイトたちは相変わらずの気安さで、けれども10年の距離が簡単に埋まることはなさそうだ。

 勇大はぬるくなったビールをのどに流し込む。

「勇大、次もビールにするか? それとも他のいく?」

 向かいの席のひとりが空いたジョッキを回収しようと手を伸ばした。

 その時、中身の入っていた別のジョッキが勇大の斜め前で倒れる。

「――あっ」

「悪い!」

 左手にビールを浴びてしまった。

 すぐにおしぼりで押さえるものの、はめていた腕時計はすでに水浸しだ。

(しまった……)

 秒針が動きを止めていた。

 これは年代モノのブランド時計で、1960年代に宇宙飛行士が月へ持っていったのと同じモデルだ。手巻き式で、最新のもののような防水性能はない。

 だからこそこの貴重な時計を大切に使っていたのだが……。

「……大丈夫か? 勇大」

 勇大の顔色を見て、隣の仲間が心配そうな顔をした。

「いや、なんでもない。大丈夫」

 こういうざっくばらんな場所に、繊細な時計をつけてきた自分の落ち度だ。勇大は外向きの笑顔を浮かべた。


 翌日、東京に戻った勇大は、動かなくなった腕時計をメーカーの直営店に持ち込んだ。

「直りますかね?」

 ウォッチメーカーと呼ばれる技術者が専用のルーペを使い、時計の刻印を確かめる。

「申し訳ありませんが、こちらの商品は部品の生産が終了しているものでして……」

 状態によっては部品の取り寄せが必要で、その部品も手に入るかどうかわからないということらしかった。

 勇大自身もその可能性を危惧してはいたが、現実になってしまった今肩を落とさざるをえない。

「一度拝見しますので、少しお時間をください」

 彼が時計を預かっていき、代わりに販売員が勇大に声をかけてきた。

「あちらのシリーズの最新モデルがちょうど入荷しているんです。よかったらお手に取ってみませんか?」

 トレイに乗せた最新モデルを差し出される。

 確かにこれもシリーズ特有のフォルムを踏襲しているが、昨年のモデルとそう変わらないデザインが急に無機質に感じられた。

(違うんだよな。俺が好きなのは……)

 勇大は時計をコレクションしていても、むやみやたらに集めているわけじゃない。そばに置きたいのは自分の琴線に触れるものだけだ。

 それからも販売員があれこれ勧めてきたけれど、食指の動くものはそこにはひとつもなかった。


 結局持ち込んだ腕時計はその場では直らずに、一旦諦めて引き取った。

 技術者曰く、これという壊れたパーツは見当たらなかったらしい。だったらなぜ動かないのか。それはわからない。「なにぶん古いものなので……」そう言われたらどうしようもなかった。

 タクシーの後部座席に深く座り、時を止めた時計を手の中に握り込んだ。

 後ろへ流れていく都会の景色を見ながら考える。勇大の琴線に触れてくるものは、物にあふれたこの街でもほんの一部だ。

 お気に入りの腕時計、お気に入りの靴。肌馴染みのいいバスタオルにバスローブ。ユニフォームのアンダーシャツ。

 試合が始まる前の、ホームグラウンドのざわめき。ヒットの快音。

 それから彼女のいる時計店。そうだ、あの空間が好きだ。

 一般的に言われる高嶺の花より、一見普通で真面目な彼女が勇大の琴線に触れてくる。

 美人女優をとっかえひっかえ? くだらない。俺にはあいつだけだ。

 琴線に触れてくる、愛せるものだけをそばに置きたい。手放したくない。

 そして気がつくと勇大は、彼女の時計店にいた。

「動かないんだ。見てもらえないか?」

 時間を止めてしまったお気に入りの時計を差し出す。メーカーでも直せないんだからダメ元だ。

 それからしばらく、ただ彼女の手仕事を眺める。いつもながらとても丁寧な手つきだ。

 直らなくても彼女の手で磨いてもらえば、時計への供養にはなるだろう。

 ところが……。

 彼女がクリーニングを施しゼンマイを巻き上げると、どういうわけか時計の針は時を刻み始めた。

「ウソだろ……? 魔法か?」

 彼女と目が合って笑みがこぼれる。

 不思議だけれど、愛情込めて磨いてやると動くことがある――彼女はそう話してくれた。

「こんなことってあるんだな……」

 時計を受け取り、昨日から止まっていた自分の中の時が動き出すのを感じる。

 過去を振り返り、立ち止まっていた時間は終わった。そして自分たちの今がここにある。

「俺の時間を前へ進められるのはお前だけだ。結婚しよう」

 湧き起こる想いをそのまま口にした。

 勇大の唐突すぎるプロポーズに、彼女は困ったように笑って行ってしまった。

「……おい?」

 ただ伝票を取りに行っただけらしい。

 プロポーズは本気にされていないとみえる。

 今は指輪も花もないんだ、当然だ。大事な言葉はふさわしいタイミングまで取っておくことにする。

「今夜、時間あるならうちに来いよ」

 代わりにそう伝えた。


 今日は勇大が夕食を作って待っていた。外で食べることも多いが、オフシーズンは健康を考え自分で料理がしたくなる。

 地元がどうだったかと聞かれ、カレーを温め直しながら彼女に話した。

「……そう、それで夜は野球部の仲間と飲み会。10年ぶり。みんなオッサンになってたよ。それぞれ子どもがいたり、家建てたりしてて……」

 年下の彼女は興味深そうにその話を聞いている。

「そうだな。俺の田舎じゃこっちみたいに土地が高くないから、結婚したら夫婦で新居を構えることが多いと思う。夫婦の部屋と、子ども部屋と……将来見越して部屋数を考えて。そういう生活もいいよな」

 新しい目標を作りたかった。でもそれには彼女は、まだぴんと来ないような顔をしている。

「もうよさそうだ」

 温まったカレーを皿によそってテーブルに運ぶ。テーブルの方は彼女がセッティングしてくれていた。

「じゃあ、食うか」

 ふたり向かい合い食卓につく。

「このスパイスの香り、好きなんだよな」

 琴線に触れるものをそばに置いて生きていきたい。そして、自分のそばにいるべき人は彼女だ。今も、この先もずっと。それを心の中で確かめる。

(そろそろ、一緒に住む家のことを考えようか……)

 これが伊藤勇大が、彼女との同棲を考え始めたきっかけだった――。


本編へ続く……