篠原 健が同棲に本気になるまで 『いつか、朝の窓辺に』

体育会系男子の同棲 警察官・篠原 健の場合 プレリュードSS

 朝の署内。廊下の角を曲がったところで、見覚えのある後ろ姿が目に入る。

「先輩……!」

 篠原健はその背中に向かって駆け寄っていった。

「先輩、警部昇進おめでとうございます!」

 振り向いた彼に向かって敬礼する。

 彼は一期上の先輩で、警察学校時代から世話になっている相手だった。

「あれ、もう掲示が出てた?」

 先輩が少し照れくさそうに聞く。

「はい、ついさっき見ました。もしかして最年少記録じゃないですか?」

 親しい先輩のスピード出世は健にとっても誇らしい。

「ああ、そうみたいだな。けどすぐお前に追い抜かれるよ」

 先輩は健の肩をたたいて笑った。

「何言ってるんですか。先輩は俺の目標です」

「だったらお前も受けてみろよ、昇任試験」

 今健は一階級下の警部補だ。試験に受かればまた先輩と肩を並べられる。

「機会を見てチャレンジしたいと思ってます」

「ああ……でも、お前結婚がまだだったよな? 今のうちにしておいた方がいい。警部より上は試験の時に人物も見られるから」

 先輩がアドバイスをしてくれた。

「結婚ですか……」

 健は思案顔になる。

「いい相手がいないなら相談に乗るが……」

「いえ、幼馴染みと付き合って、そろそろ一年になります」

「そうなのか。だったら適当なタイミングで身を固めたらいい」

「とはいえ、彼女も仕事を持つ身で……」

 警察官に転勤はつきものだ。警察官の妻となれば仕事への影響は免れないだろう。

 けれども先輩は強気で言う。

「今の時代ほとんどの女性は働いてる。遠慮してたらいつまでたっても結婚できないぞ。支えてもらえるよう、ちゃんと彼女を口説いてみろよ」

「前向きに考えてみます」

 健も、その場ではそう答えた。


(しかし、結婚かぁ……)

 その日の夕方、彼女の勤め先である花屋に向かいながら考える。

 健も彼女との結婚を考えていないわけではなかった。愛する人とは、周囲にも認められる形で結ばれたい。

 けれど付き合い始めて一年。会える時間そのものが貴重で、まだ先へ進もうという空気はふたりの間にはなかった。

 店の前に到着すると、ちょうど彼女が店先に並んだ鉢植えを中に入れているところだった。

「お疲れ! 今日は早めに上がれたから顔見にきた。あと、何か適当な鉢植えをもらおうかな」

 思いつきで言ったことだったが、彼女は真剣に鉢植えを選んでくれる。

「……置く場所? えーと、玄関の靴箱の上が寂しいから、その辺かな」

 置き場所に合う鉢のサイズと背の高さ。世話のしやすさはもとより、部屋の雰囲気や色みも考慮して選んでくれているみたいだ。

(やっぱりこの仕事が好きなんだな……)

 あれこれ提案してくれる彼女のその瞳は輝いていた。

「仕事、楽しいか?」

 健の唐突な質問に、彼女はもちろんだと言って笑う。

 不意に見せられた笑顔のまぶしさに、胸を撃ち抜かれてしまった。

「そうだな、じゃあ……これにしようかな」

 彼女のまぶしさから目を逸らし、足下に並んだ鉢植えを選ぶ。

「……え? どうもしないって。ただ、大切に育てていきたいと思ってさ」

 健は鉢植えを持ち上げてみせた。

 けど、大切に育てたいのは鉢植えのことじゃない。彼女との関係だ。

 健の仕事の都合で結婚を急ぐのは違うと思う。自分たちのペースでゆっくりと恋を育んでいきたい。

 彼女は健の選んだ鉢植えを受け取り、「大事にしてね」と微笑んだ。


「これ、サンキューな」

 包んでもらった鉢植えを軽く持ち上げ、彼女との別れを惜しむ。

 たった五分足らずの逢瀬だ。もっと一緒にいたいけれど、あまり店に長居はできない。

「そうだ、昇進した先輩がいるから、今度先輩への花束を頼みに来るよ」

 それだけ言い残して行こうとすると、店の奥にいた店長さんが店先に顔を出した。

「せっかく彼氏さんが来てくれてるんだから、少し早いけど上がって?」

 健が名残惜しそうにしていたことに気づいてのことだろうか。気恥ずかしいものの、店長さんの心遣いが嬉しい。

「すみません、お気遣いありがとうございます」

 腰を折って礼を言うと、「いいからいいから」と笑われた。

 健はエプロンを外す彼女を見る。

「じゃあ、こいつもらっていきます」

 すると今度は彼女がクスクスと笑った。

「え、もらうって何って……ああ、嫁にもらうみたいに聞こえた? ははっ、それいいな。お前、俺の嫁さんになる?」

 彼女はそれには答えず、ただ照れくさそうに笑っている。

「いや、本気だって! ウソじゃない。いつか絶対もらう……!」

 胸の中が甘酸っぱくて仕方なかった。

「俺とじゃイヤ?」

 照れ隠しにそんなふうに聞いてみると、彼女は「じゃあいつか」と答える。

(そうだな。今じゃない、いつかでいいんだ)

 あせる気持ちがすうっと消えていくようだった。

 それから荷物を取ってきた彼女と一緒に店を離れた。

「これからどうする? どっかでメシ食って、そのあとウチ来るか? この前観たいって言ってたDVD、まだウチにあるし」

 未だに彼女を家に誘うには、それなりの誘い文句が必要だ。本当は「一緒にいたい」だけでもいいと思うけれど……。

(理由なんかなく、いつも一緒にいられたらいいのに……)

 夕食のことを話しながら、頭ではそんなことを考えた――。


 翌朝。健はやわらかな温もりを抱いて目を覚ます。

 部屋の中は暗い。カーテンの向こうもまだ日の出前の明るさだった。

「ふぁ……、今何時だ?」

 いつもの動作でスマホを引き寄せようとして、隣で寝ている彼女に気づく。

 昨日彼女はここに泊まり、ふたりはこのベッドで愛を交わした。

(きっと疲れさせたよな。それにまだ早いし、起こさない方がいいよな……)

 彼女はすやすやと寝息を立てている。

 むき出しの肩が寒そうで、健は布団を引き上げそっとその肩にかけ直した。

 と、彼女の口が少し開いていることに気づく。

(ヤバいな、寝顔が可愛いすぎる……)

 起こしちゃダメだと思いながらも、たまらず彼女の額にキスをした。

 眠り姫が起きる気配はない。だからもう一度、今度は耳元に……。

「ふふっ、あんまり可愛いと、俺がお前から離れられなくなるだろ?」

 そっと体を離してささやいた。

 今日も健には仕事がある。出かける時間まではまだだいぶあるが、それでも彼女より早く家を出なければならない。だからこその言葉だった。

 そんな時、健のスマホが鳴りだした。

(誰だ、こんな朝っぱらから!)

 呼び出し音が彼女を起こさないよう慌てて出る。

「はい、篠原……」

『篠原先輩、お休みのところすみません!』

 当直勤務で交番にいる後輩からの電話だった。

『ヤマダさんっていう八十代くらいの男性を保護したんですが、痴呆が入っているみたいでうまく話が通じず。かろうじて篠原先輩のお名前が聞けたんですが……』

「……ああ、その人は三丁目のタバコ屋のご隠居さんだ。俺が何回か送っていってる」

『三丁目のタバコ屋ですね、了解しました!』

 後輩からの電話は慌ただしく切れる。

(タバコ屋のご隠居さんの件は、ちゃんと引き継ぎしておいたんだけどな……)

 ため息をつきスマホを置こうとすると、立て続けにまた着信があった。

 今度は上司の番号からだ。健はイヤな予感を覚えながらも電話を取った。

「はい、篠原」

『俺だ! 朝から悪いな。二課が一斉捜査のために人を貸せと言ってきてる。お前、手伝いに行ってくれないか?』

「え、今からですか!?」

『それが今からなんだ』

 健に断る権利はもちろんない。

「分かりました、すぐ準備して向かいます……!」

 そう伝え、短い通話を終わらせた。

(はぁ、朝から慌ただしいな……)

 隣を見るが、彼女が起きた様子はなさそうだ。健はほっとする

 それにしても……。いつものことながら、この慌ただしさには苦笑いが浮かんだ。

 すぐに身支度をして出かけなければならない。

 寝ている彼女を置いていくのも可哀想だが、起こすのも可哀想だ。

 とりあえず置き手紙をして行こうかと考える。

 それからベッド脇にあるクローゼットの前で着替えていると、ベッドから細い腕が伸びてきた。

(……え?)

 寝ていると思っていた彼女が、「もう行っちゃうの?」と甘えてくる。

「悪い、起こすつもりはなかったんだが。行かなきゃいけなくなったんだよ」

 朝ごはん作ってあげたかった、と彼女。

「そうだな。俺も一緒に朝メシ食いたかった」

 そういう意味でも夫婦の食卓には憧れる。結婚したら今日がダメでも、いつでも一緒に食事ができるから……。

 昨日は、結婚は「いつか」でいいと思ったのに、寝起きの彼女に甘えられ、思いが募ってしまった。

「朝メシの代わりに……んっ」

 まだ布団の中にいる彼女の唇にキスを落とす。

 その瞬間、健の頭にある考えがひらめいた。

(そうだ、結婚は「いつか」でも、俺たち一緒に住むことはできるんじゃないのか?)

 彼女がどう思うかは分からないが、職場も近いんだし、その気になれば一緒に住むことはできるはずだ。

 考えながらネクタイを締め、ジャケットにそでを通した。

「わ、時間が……!」

 彼女ともう一度キスをして、鞄をつかんで家を飛び出す。

 建物から通りに飛び出し、振り向いて自分の部屋の窓を見た。

「あっ……」

 朝の窓辺で、愛する人が手を振っていた。

「行ってくるー!」

 健も大きく手を振り返す。

(同棲のこと、ゆっくり話せる時に話してみよう! 今はとても無理だけど!)

 これが篠原健が、彼女との同棲を考え始めたきっかけだった――。

本編へ続く……