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小説

大人の夏休み 農家・川辺 竜の場合

恋の残り火

「あいつ帰ってくるんですか?」

 隣家の夫人から庭先でその話を聞かされ、川辺竜は農機具を片付ける手を止めた。

 季節は初夏。夏野菜の収穫に向け、畑の周囲の草刈りをして帰ってきた日のことだった。

 エプロンで手を拭きながら、おばさんは嬉しそうに目を細める。

「そうなの! 帰ってくるのは四、五年ぶりよね。この前会った時は私たちが向こうへ行ったから」

 隣の子は女の子で、年は竜より二つ下。高校卒業と同時に上京していたからもう随分と経つ。今頃はすっかり大人の女性になっていることだろう。

 竜はおぼろげな記憶から彼女の面影を探した。

「それでね、竜くんにお願いなんだけど」

 おばさんがパチンと手を打つ。

「おたくの野菜をあの子の来る日に分けてほしいの。どうせ向こうじゃロクなもの食べてないだろうし、こっちへ来た時くらいいいものを食べさせてあげたくて」

 久しぶりの娘の帰省に、おばさんも張り切っているみたいだ。

「いいっすよ。帰省祝いってことで、いいやつたくさん見繕ってきます」

 竜も二つ返事で引き受ける。農家の跡取りである竜としては、世話になっているお隣さんに、ここで頼ってもらわねばというところだ。

「ありがとう……! やっぱりスーパーの野菜じゃ味気ないものね。あ、その日は竜くんも、野菜のお礼に晩ご飯呼ばれてって。腕によりをかけて作るから」

 それから隣の台所でやかんの湯の沸く音が響き、おばさんはいそいそと中へ戻っていった。

「そうか、あいつ帰ってくるのか……」

 夕暮れの庭先で、竜はひとり遠くの空を見上げる。

 すると遠い日の出来事が、突然記憶の底からよみがえってきた――。

 *

 あれは彼女が高校三年、竜は二十歳で日々の仕事にも慣れてきた頃のことだ。

 その日採った野菜をいつものように地元の直売所に運び込んでいると、前の道を女子高生の一団が通りかかった。

(早いな。テストか何かか?)

 地元の高校生のことなんて普段なら気にも留めないのに、その日はどうしてか目がいった。

 そして竜は数秒後、自分の目を惹きつけたものの正体を知る。

(……ああ、隣のあいつか)

 しばらく顔を合わせていなかったが、久しぶりに見る隣の子には、ぱっと目を引く愛らしさがあった。

 特別美人というわけでもないけれど、笑うとふわっと緩むバラ色の頬なんか、丹精込めて育てたトマトみたいで――。

「何固まってんの? 竜くんは」

 直売所のおばちゃんに声をかけられ、竜は自分がコンテナを抱えたまま突っ立っていたことに気づいた。

「ああ、えーっと……」

 おばちゃんと、コンテナの中の野菜を見比べる。

「うちのトマトが、可愛いなと思って……」

「えー?」

 おばちゃんは驚いた顔をしたあと、声を立てて笑いだす。

「ほっんと竜くんは仕事一筋ねえ! そんなんじゃ婚期逃すわよお」

「俺、まだハタチっすよ」

「そうはいっても地元に年頃の子は少ないんだから、今から頑張らないと周りが気を揉むわよ? そうだ! 親戚に独り身の子がいるんだけど」

「すいません、俺はそういうのはまだ」

(困ったな……)

 おばちゃんの大きな声のせいで、女子高生たちがこっちを見ている。

(……あれ?)

 そんな中、特別な視線を感じた。

 視線をたどると、それはさっき竜が見とれていた隣の子だった。

 他の子たちはすぐ元のおしゃべりに戻ってしまったけれど、彼女だけは歩きながらずっと竜のことを気にしている。

(どうした?)

 絡み合い、離れない視線に胸が高鳴った。けれどこの状況では声もかけられない。

 そうこうするうちに彼女は、他の子たちと一緒に直売所の前を通り過ぎていってしまった。

「竜くん、トマトとのお別れはそれくらいにして、早く中へ持ってきてちょうだいね?」

 先に中へ向かいながら、おばちゃんが竜を急かす。

「ああ、はい」

 竜はなんともいえないモヤモヤを抱えたまま、直売所の中へ進んだ。

 それからその日はずっと、彼女のことが頭から離れず――。

(明日も早いっていうのに、このままじゃ眠れねえ!)

 夜九時を過ぎてから、竜は隣家の玄関の戸を叩いた。

 彼女と話をしようと決めたものの、一体何をどう話すべきなのかわからない。昼間の視線の意味を聞けばすっきりするんだろうか?

 それとも自分は、彼女に好意を伝えたがっているんだろうか……。

 考えているうちに、パジャマ姿の彼女が玄関へ下りてきた。

「よかった、お前が出てきてくれて。実は話があって来たんだ」

 竜のその言葉に、彼女は何かを察したような顔になる。それから、自分も話したかったと打ち明けた。

「――え、お前も?」

 期待に胸の鼓動が跳ねる。

 そして竜は、何年かぶりの彼女の部屋に通された。

 男が年頃の女の子の部屋に入るのは気が引けて、随分前からここへ来るのは遠慮していたんだが……。

 見覚えのある勉強机、チェック柄のカーテン。それから壁に掛けられた高校の制服……。

 いつからこんな匂いがするんだろう、胸をざわつかせるような甘い香りがした。

 座卓の前に座ってその部屋を眺めていると、彼女が何かのパンフレットを出してくる。

「え……?」

 すぐには話が読めずに戸惑った。

「もしかしてお前、ここへ行きたいのか?」

 パンフレットには高卒の竜でも聞いたことのある、有名大学の名前が記されていた。

「お前、昔から頭よかったもんな。……けど、おばさんたちはなんて?」

 彼女の表情が曇る。思った通り反対されているようだ。

「……そっか。一人娘だもんなあ。遠くの大学にはやりたくない、か」

 座卓越しに見つめてくる瞳は、助けを求めているようだった。いろんな意味で胸が痛む。

 目の前にいる彼女の瞳に、自分が映っていないこと。彼女が自分たちを置いて遠くへ行こうとしていること。それでもやっぱり、彼女を可愛いと思うこと……。

(俺だってこいつを守ってやりたいと思うけど……。そうじゃないんだよな? 本人は自分の力で人生に挑戦していきたいって思ってる……)

 彼女の話を聞いて、竜にもそのことがよくわかった。

「……そうだな! 俺からもおばさんたちに話してみるよ」

 彼女の思い詰めたような表情がふっと緩んだ。

「大丈夫だって! 大切な一人娘なんだ、おばさんたちだってそりゃあ心配するだろうけど、最後には本人の意志を尊重してくれる」

 そして竜の思った通りにことは進み、翌年には彼女は東京へ旅立っていった――。

 *

(またあいつの顔が見られるのか)

 彼女の帰省を聞いた翌日。今日もコンテナに詰めた野菜を直売所へ運びながら、竜は懐かしい顔を思い浮かべる。

「竜くんどうしたの? 頬が緩んでるわよ」

 ちょうど外を掃除していた直売所のおばちゃんに声をかけられた。

「何かあったの?」

「何かって……特に何もないですけど」

 売り物の野菜も自分もいつも通りだ。

 けれど心の中に、淡い思い出と再会への期待がある。

「強いて挙げるなら、うちのトマトが可愛いなって思ってました」

「確かに、今日はまた立派なのが採れたわねえ!」

 そう言われてみると、今日収穫したトマトは大ぶりのものが多かった。

「そうっすね、立派に育ちましたね」

(あいつも立派になっているんだろうな)

 大学卒業後は、ウェディング関係の仕事をしていると聞いていた。

(ウェディング……といえば、あいつ自身は結婚は?)

 さすがに結婚となれば隣から話が耳に入るはずで、聞いていないということは独身か。

 竜自身も直売所のおばちゃんに予言されていた通り、最近は早く嫁を取れと周囲がうるさい。彼女だってそうなんじゃないかと思った。

「……あれ?」

 余計な期待をしてしまいそうになり、慌てて首を軽く振る。

「どうしたの? トマトとの別れが惜しくなった?」

 おばちゃんが早速ツッコんできた。

「惜しくなったら連れて帰っていいんですか?」

「ええ? そうねえ……どうしてもっていうなら、自分で食べちゃったらいいじゃない」

「えっ……?」

 トマトに似た彼女の顔を思い浮かべ、ついよからぬことを想像する。

「何変な顔してるの? 冗談よ?」

「いや……ほんとに連れて帰りたくなったらそうします。俺らももう大人だし」

「ん?」

 今度はおばちゃんが変な顔をしたけれど、竜はなんだか吹っ切れたような気がした。

(そうだな。期待するわけじゃねえけど、縁があればなるようになるよな!)

 そこで他のトラックが特売所の敷地に入ってくる。

「よお、竜!」

 顔見知りの農家の息子だった。彼も野菜を卸しに来たみたいだ。

「おお!」

 返事をすると、彼はトラックの運転席から竜を見て、怪訝そうな顔をする。

「なんだ? 今日はやけに機嫌よさそうだな」

「竜くんはね。大きく育ったトマトが可愛くてしょうがないのよ」

 おばちゃんが横から口を挟んだ。

「ははは! お前らしいなあ」

「トマトが可愛くちゃいけねえか」

 どっちのトマトのことなのか。そう考えながらも心が躍る。

 あの淡い恋の残り火が、また再燃しそうな予感がした――。