「あいつ帰ってくるんですか?」
隣家の夫人から庭先でその話を聞かされ、川辺竜は農機具を片付ける手を止めた。
季節は初夏。夏野菜の収穫に向け、畑の周囲の草刈りをして帰ってきた日のことだった。
エプロンで手を拭きながら、おばさんは嬉しそうに目を細める。
「そうなの! 帰ってくるのは四、五年ぶりよね。この前会った時は私たちが向こうへ行ったから」
隣の子は女の子で、年は竜より二つ下。高校卒業と同時に上京していたからもう随分と経つ。今頃はすっかり大人の女性になっていることだろう。
竜はおぼろげな記憶から彼女の面影を探した。
「それでね、竜くんにお願いなんだけど」
おばさんがパチンと手を打つ。
「おたくの野菜をあの子の来る日に分けてほしいの。どうせ向こうじゃロクなもの食べてないだろうし、こっちへ来た時くらいいいものを食べさせてあげたくて」
久しぶりの娘の帰省に、おばさんも張り切っているみたいだ。
「いいっすよ。帰省祝いってことで、いいやつたくさん見繕ってきます」
竜も二つ返事で引き受ける。農家の跡取りである竜としては、世話になっているお隣さんに、ここで頼ってもらわねばというところだ。
「ありがとう……! やっぱりスーパーの野菜じゃ味気ないものね。あ、その日は竜くんも、野菜のお礼に晩ご飯呼ばれてって。腕によりをかけて作るから」
それから隣の台所でやかんの湯の沸く音が響き、おばさんはいそいそと中へ戻っていった。
「そうか、あいつ帰ってくるのか……」
夕暮れの庭先で、竜はひとり遠くの空を見上げる。
すると遠い日の出来事が、突然記憶の底からよみがえってきた――。
*
あれは彼女が高校三年、竜は二十歳で日々の仕事にも慣れてきた頃のことだ。
その日採った野菜をいつものように地元の直売所に運び込んでいると、前の道を女子高生の一団が通りかかった。
(早いな。テストか何かか?)
地元の高校生のことなんて普段なら気にも留めないのに、その日はどうしてか目がいった。
そして竜は数秒後、自分の目を惹きつけたものの正体を知る。
(……ああ、隣のあいつか)
しばらく顔を合わせていなかったが、久しぶりに見る隣の子には、ぱっと目を引く愛らしさがあった。
特別美人というわけでもないけれど、笑うとふわっと緩むバラ色の頬なんか、丹精込めて育てたトマトみたいで――。
「何固まってんの? 竜くんは」
直売所のおばちゃんに声をかけられ、竜は自分がコンテナを抱えたまま突っ立っていたことに気づいた。
「ああ、えーっと……」
おばちゃんと、コンテナの中の野菜を見比べる。
「うちのトマトが、可愛いなと思って……」
「えー?」
おばちゃんは驚いた顔をしたあと、声を立てて笑いだす。
「ほっんと竜くんは仕事一筋ねえ! そんなんじゃ婚期逃すわよお」
「俺、まだハタチっすよ」
「そうはいっても地元に年頃の子は少ないんだから、今から頑張らないと周りが気を揉むわよ? そうだ! 親戚に独り身の子がいるんだけど」
「すいません、俺はそういうのはまだ」
(困ったな……)
おばちゃんの大きな声のせいで、女子高生たちがこっちを見ている。
(……あれ?)
そんな中、特別な視線を感じた。
視線をたどると、それはさっき竜が見とれていた隣の子だった。
他の子たちはすぐ元のおしゃべりに戻ってしまったけれど、彼女だけは歩きながらずっと竜のことを気にしている。
(どうした?)
絡み合い、離れない視線に胸が高鳴った。けれどこの状況では声もかけられない。
そうこうするうちに彼女は、他の子たちと一緒に直売所の前を通り過ぎていってしまった。
「竜くん、トマトとのお別れはそれくらいにして、早く中へ持ってきてちょうだいね?」
先に中へ向かいながら、おばちゃんが竜を急かす。
「ああ、はい」
竜はなんともいえないモヤモヤを抱えたまま、直売所の中へ進んだ。
それからその日はずっと、彼女のことが頭から離れず――。
(明日も早いっていうのに、このままじゃ眠れねえ!)
夜九時を過ぎてから、竜は隣家の玄関の戸を叩いた。
彼女と話をしようと決めたものの、一体何をどう話すべきなのかわからない。昼間の視線の意味を聞けばすっきりするんだろうか?
それとも自分は、彼女に好意を伝えたがっているんだろうか……。
考えているうちに、パジャマ姿の彼女が玄関へ下りてきた。
「よかった、お前が出てきてくれて。実は話があって来たんだ」
竜のその言葉に、彼女は何かを察したような顔になる。それから、自分も話したかったと打ち明けた。
「――え、お前も?」
期待に胸の鼓動が跳ねる。
そして竜は、何年かぶりの彼女の部屋に通された。
男が年頃の女の子の部屋に入るのは気が引けて、随分前からここへ来るのは遠慮していたんだが……。
見覚えのある勉強机、チェック柄のカーテン。それから壁に掛けられた高校の制服……。
いつからこんな匂いがするんだろう、胸をざわつかせるような甘い香りがした。
座卓の前に座ってその部屋を眺めていると、彼女が何かのパンフレットを出してくる。
「え……?」
すぐには話が読めずに戸惑った。
「もしかしてお前、ここへ行きたいのか?」
パンフレットには高卒の竜でも聞いたことのある、有名大学の名前が記されていた。
「お前、昔から頭よかったもんな。……けど、おばさんたちはなんて?」
彼女の表情が曇る。思った通り反対されているようだ。
「……そっか。一人娘だもんなあ。遠くの大学にはやりたくない、か」
座卓越しに見つめてくる瞳は、助けを求めているようだった。いろんな意味で胸が痛む。
目の前にいる彼女の瞳に、自分が映っていないこと。彼女が自分たちを置いて遠くへ行こうとしていること。それでもやっぱり、彼女を可愛いと思うこと……。
(俺だってこいつを守ってやりたいと思うけど……。そうじゃないんだよな? 本人は自分の力で人生に挑戦していきたいって思ってる……)
彼女の話を聞いて、竜にもそのことがよくわかった。
「……そうだな! 俺からもおばさんたちに話してみるよ」
彼女の思い詰めたような表情がふっと緩んだ。
「大丈夫だって! 大切な一人娘なんだ、おばさんたちだってそりゃあ心配するだろうけど、最後には本人の意志を尊重してくれる」
そして竜の思った通りにことは進み、翌年には彼女は東京へ旅立っていった――。
*
(またあいつの顔が見られるのか)
彼女の帰省を聞いた翌日。今日もコンテナに詰めた野菜を直売所へ運びながら、竜は懐かしい顔を思い浮かべる。
「竜くんどうしたの? 頬が緩んでるわよ」
ちょうど外を掃除していた直売所のおばちゃんに声をかけられた。
「何かあったの?」
「何かって……特に何もないですけど」
売り物の野菜も自分もいつも通りだ。
けれど心の中に、淡い思い出と再会への期待がある。
「強いて挙げるなら、うちのトマトが可愛いなって思ってました」
「確かに、今日はまた立派なのが採れたわねえ!」
そう言われてみると、今日収穫したトマトは大ぶりのものが多かった。
「そうっすね、立派に育ちましたね」
(あいつも立派になっているんだろうな)
大学卒業後は、ウェディング関係の仕事をしていると聞いていた。
(ウェディング……といえば、あいつ自身は結婚は?)
さすがに結婚となれば隣から話が耳に入るはずで、聞いていないということは独身か。
竜自身も直売所のおばちゃんに予言されていた通り、最近は早く嫁を取れと周囲がうるさい。彼女だってそうなんじゃないかと思った。
「……あれ?」
余計な期待をしてしまいそうになり、慌てて首を軽く振る。
「どうしたの? トマトとの別れが惜しくなった?」
おばちゃんが早速ツッコんできた。
「惜しくなったら連れて帰っていいんですか?」
「ええ? そうねえ……どうしてもっていうなら、自分で食べちゃったらいいじゃない」
「えっ……?」
トマトに似た彼女の顔を思い浮かべ、ついよからぬことを想像する。
「何変な顔してるの? 冗談よ?」
「いや……ほんとに連れて帰りたくなったらそうします。俺らももう大人だし」
「ん?」
今度はおばちゃんが変な顔をしたけれど、竜はなんだか吹っ切れたような気がした。
(そうだな。期待するわけじゃねえけど、縁があればなるようになるよな!)
そこで他のトラックが特売所の敷地に入ってくる。
「よお、竜!」
顔見知りの農家の息子だった。彼も野菜を卸しに来たみたいだ。
「おお!」
返事をすると、彼はトラックの運転席から竜を見て、怪訝そうな顔をする。
「なんだ? 今日はやけに機嫌よさそうだな」
「竜くんはね。大きく育ったトマトが可愛くてしょうがないのよ」
おばちゃんが横から口を挟んだ。
「ははは! お前らしいなあ」
「トマトが可愛くちゃいけねえか」
どっちのトマトのことなのか。そう考えながらも心が躍る。
あの淡い恋の残り火が、また再燃しそうな予感がした――。
「たこ焼きっていったらタコだろ、キャベツだろ、それからえーっと、卵?」
放課後の教室。ベニア板製の看板に色を塗りながら、男子3人が話している。
「材料ってそんなもん?」
「そんなもんだろ」
「本当に? 追加予算の申請明日までなんだから、真面目に考えてよ」
そんな“たこ焼き班”の隣で“焼きそば班”の看板を描いていた阪本寬司は、呆れながら口を挟んだ。
「あのなあ。たこ焼き粉がねえと作れねえだろ。それから青のりに鰹節、お好みでマヨネーズ」
「たこ焼き粉って何?」
「知らねえのかよ。ホットケーキミックスみたいに、たこ焼き用の粉があんだぜ」
「へええ、さすが将来の若旦那!」
「あのな。旅館じゃたこ焼きは出さねーよ」
寬司は苦笑いになる。
文化祭まであと少し。クラスは浮き足だった空気に包まれていた。
「どの班も、まあまあ順調だな」
周りのみんなが頷く。
「だな! 寬司の引いたスケジュール通り!」
「俺がスケジュール引かねえとお前ら適当だっただろ」
「さすが俺らの宴会部長!」
「うるせーよ」
寬司は笑いながらハケを置き、看板に塗り残りがないか確認して立ち上がった。
「とりあえず今日はこんなモンか。あとは乾いてから仕上げだな」
窓の外へ目をやると、すでに日が暮れかけていた。
「そろそろ帰ろうぜ。俺は道具片づけてくるわ」
みんなもそれぞれのタイミングで片づけを始める。
寬司は他の班の道具もまとめて持って、美術室へ向かった。
それから廊下を歩いていると、途中で人気のある部屋を見つける。
(あれ? ここって……)
家庭科室だった。そういえば同じクラスの別の班が、文化祭の準備でここを使っていた気がする。
気になって覗くと、女子がたった1人で作業していた。
教室の奥に見えるはかなげな横顔に目が吸い寄せられる。
(あいつって確か……)
担任からの信頼も厚い、真面目な生徒だった。
(優等生、1人で何してるんだ?)
好奇心から声をかける。
「おい、あんた」
寬司の声に、彼女は手元からぱっと顔を上げた。
「俺、同じクラスの阪本」
彼女の表情が和らぐ。話したことはないけれど、一応クラスメイトと認識してもらえているようだ。
「文化祭、メイド喫茶の班だっけ? なんで1人で作業してんだ?」
問いかけながら近づいていく。テーブルの上には縫いかけの衣装がいくつも広げられていた。
彼女は寬司の問いかけに戸惑う様子を見せたものの、ひと呼吸置いて答える。
それによると班のみんながあまり協力的でなく、1人で残って衣装作りをしているようだった。
「は? 投げ出した奴らの分までやる必要ねえだろう。そういうことすると向こうがつけ上がるぜ?」
呆れて言うと、彼女はムッとした表情になる。
大人しそうな女子だと思って舐めていたが、案外気が強いのか。目の輝きに惹かれた。
「なんだよ優等生! 真面目も過ぎるとバカが付くって知ってたか?」
好意からなのかなんなのか、ついからかうようなことを言ってしまった。
縫い物をしていた彼女の手が止まる。
(……お、泣くか?)
何も言わなくなったことにドキリとした。
ところが彼女はふうっと長いため息をつくと、もうやめた、と縫い物を投げ出してしまった。
「え、おい?」
それからどういうわけか足を組み、ふて腐れたように携帯を見始める。
「なんだ、怒ってんのか?」
言葉は返ってこない。
「悪かったよ、余計なこと言って」
やっぱりこっちを見てくれなかった。
「なあ」
彼女の向かいに座り、テーブルに頬をつけるようにして下から顔を覗き込む。
怒っているのかと思ったけれど、携帯を見る表情は案外明るかった。
目を上げた彼女と視線が合わさる。
(……お?)
彼女の目に寬司はどう映ったのか。顔を見てクスッと笑われた。
それから怒ってないよ、という言葉が返ってくる。
「なんだよ、おい」
なんだか恥ずかしくなってしまい、寬司は目の前の衣装を引き寄せた。
メイド喫茶で使うエプロンのようだった。シンプルな白のエプロンに、フリルテープを縫い付けているところみたいだ。フリルテープはまち針ですでに固定されている。
「これ、普通に波縫い?」
聞くと、そうだと返事が返ってきた。
「だったら俺手伝うわ」
寬司の申し出に彼女は驚いた顔をする。
「急がねえと文化祭に間に合わねえんだろ? 1人で残ってやってるってことは」
その辺にあった針に糸を通した。裁縫は別に得意でもないけれど、そこそこ器用な寬司には人並みにやれる自信があった。
それから黙々と縫っていると、向かいの彼女も携帯をしまって再び手を動かし始める。
ありがとう、と恥ずかしそうな声が聞こえてきた。
「いや」
しばらくまた無言で手を動かす。
「いっちょあがりっと! そっちのも寄越せよ」
そうしてフリル付きのエプロンが何枚か仕上がった。
気がつくといつの間にか下校のチャイムが鳴っている。
「もう帰んねーとな。ほら、急げよ。遅くなると危ねーぜ?」
彼女をせかし、自分は道具を返しに美術室へ向かうことにした。
家庭科室の前に置きっ放しにしていたものを持ち上げ、振り返る。
ちょうど立ち上がった彼女と目が合った。
「ああ、そうだ。お前んとこの班の奴らには、俺がひと言言っとくよ。……え、なんでって……」
他の班のことに口を出す理由は、自分でもよくわからなかった。
「なんでだろうな? お前がほっとけないっつーか。いや、しっかりしてる感じはするけどさ」
言いかけて、自分が何を言いたいのかもわからなくなる。
「別に、理由なんてない」
それだけ言って、家庭科室をあとにした。
それが17~8年前、高校1年の文化祭前のことだった。
(あの時からだったな。俺があいつを意識し始めたのは……)
旅館の事務室。メールで送られてきた同窓会の出席者名簿を見て、阪本寬司は過去を振り返っていた。
黒縁眼鏡になでつけた髪、阪本旅館の文字が入った羽織り。あの頃同級生たちにからかわれていた通り、今では寬司も旅館の若旦那だ。接客から掃除、金勘定まで器用にこなし、日々旅館の運営に力を尽くしている。
同窓会の名簿から予約台帳に視線を移し、宴会場の予約状況を確かめた。
寬司の参加する同窓会でここの宴会場が使われるのは、今回が初めてではなかった。
だが彼女が出席するのは寬司の知る限り初めてで、高校卒業以来の再会となる。
(あいつが来るのか……)
今は業務時間中だというのに胸がざわついて、冷静ではいられない。いい年をして、学生時代の想いを引きずっている自分に苦笑した。
そんな時、1人きりだった事務室に、誰かが入ってくる気配がある。
振り向くと、板場を任せている板長が事務室ののれんをくぐっていた。
「若旦那、こちらでしたか。来週の同窓会の件、そろそろ人数が確定したかと思い、確認にきたのですが……」
そういえばその話を今朝の朝礼でもしていた。大人数の宴会となれば、食材の手配に数日かかるからだ。
「ちょうど今名簿が送られてきて。人数は……聞いていた通りで確定です」
板長が頷く。
「そうしましたら、当日の献立を決めていきたいのですが。通常のコース料理にプラスして、考えている季節のものは……」
メニューの提案を聞きながら、寬司はまた彼女のことを考えていた。
(あいつ、何が好きなんだろ? うちの料理で好きそうなものは……)
昔は深い仲だったのに、考えてみても好きな料理のひとつも思い浮かばなかった。
それも仕方のないことだ。彼女とは結局カラダだけの関係に終わってしまったからだ。
本当はもっといろんなことを話し、一緒にいろんな場所に行きたかった。
思い出すと胸が痛い。
あの頃の自分がもう少し大人だったら、今も連絡を取り合う仲でいられただろうか。そうでなくても、もっと違う関係を築けていただろうか。
後悔しても、もう十何年も前のことだ。
「……という感じでいかがでしょう?」
話し終わり、板長がこちらの表情を窺った。
「そうっすね、それで」
寬司は動揺を隠してにこやかに返す。
それからふと思うところがあり、行きかけた板長を引き留めた。
「ああ、板長」
「どうしました?」
「俺の大切な客なんで……、よろしく頼みます」
「ええ、はい! もちろんですとも」
板長は二つ返事で引き受けて、板場に戻っていく。
その背中を見送り、寬司はもとのPCに向き直った。
(あいつが来るんだ)
名簿の文字を指でなぞり、もう一度その事実を確かめる。まだ実感が湧かないが、事情が変わらなければ本当に来るんだろう。
(また会えた時には、俺は……)
家庭科室でたった1人、縫い物をする横顔が脳裏から離れなかった。
あの時みたいに彼女が困っていたら手を貸そう。
けれど、そんな必要がないくらい彼女が幸せなことを今は祈ろう。
心を落ち着かせ、出席者名簿のファイルを閉じた――。
「おかげさまで一課は今月の目標を達成。残り四日でさらなる売り上げアップを目指します」
朝の会議の席。課長と一緒に課の状況を報告した水城信太郎に、みんなから拍手が贈られる。
始めは会議資料の作成を頼まれていたけれど、今は報告そのものも一緒に行っている。それだけ課長に信頼されている。それは信太郎にとって誇らしいことだった。
その上一課は厳しいノルマを常にクリアし、会議にいい報告ばかりを上げている。
営業マンとしての信太郎の人生は順風満帆のように思えた。
朝イチの会議を終えると、営業部員たちはそれぞれの営業先へと散っていく。
信太郎も手早くテーブルを片付け、会議室を出ようとしていたが……。
「お疲れ、水城。一課の売り上げアップ分、ほとんどお前の手柄だって聞いてるぞ」
まだひとり残っていた部長に声をかけられた。
「いえ、販売店さんがどこもよくしてくれまして」
部長に声をかけられたことに、信太郎は少し驚きながら答える。
家電メーカーで小売店を対象に営業を行っている一課にとって、販売店との付き合いは生命線だ。
店頭の目立つ位置に自社製品を置いてもらい、販売員からもよさをアピールしてもらう。 そのためには足繁く店に通い、販売員たちとコミュニケーションを取る必要がある。
地道な作業だが、人懐っこい性格の信太郎には向いていて、営業先に行けば水城さん、水城さんと向こうから声をかけられるようになっていた。
「新宿北口のコダマカメラさんが売り場を広げてくれたんです。それからご報告した通り、グレート電機さんが全店上げてのフェアをしてくださっているのが大きいです」
「グレートは本部も含めて君の担当だったよな。最近様子を見に行ったが、君の評判はとてもよかった」
「本当ですか? それは嬉しいです」
普段は厳しい部長がこんなふうに褒めてくれることはめずらしい。信太郎は恐縮しつつも達成感を覚えていた。
「そこでだが……」
部長が続ける。
「今度、一課長の席が空くのは知っているだろう? 俺はお前に一課長になってもらいたいと思っているんだが……」
「えっ、それは……」
今の一課長は来年新設される地方の営業部を取り仕切ることになっていた。だが課内にはキャリアの長い営業マンも大勢いて、まだ二十代の信太郎が課長に推薦されるとなると大抜擢だ。
「まだ先のことだが、考えておいてくれ」
部長は信太郎の肩を強く叩き、会議室を出ていった。
「俺が、課長……?」
思わず呟き、ガラス張りの向こうに広がるフロアを見る。
仕事は面白いし、責任のある立場を任されるのは嬉しいことだ。だが突然のことで心の準備ができておらず、どう受け止めていいのかわからなかった。
その日は金曜で、退社後は同じ課の先輩と久しぶりに飲みに行く約束をしていた。
「最近のお前の営業成績、ほんとすごいよな。あやかりたいもんだよ」
乾杯のあと、先輩は大げさに言ってビールをあおる。場所はいつもの赤提灯だ。
「そんな、恐れ多いですよ」
確かに営業成績は右肩上がりだが、特別何かをしているわけでなく人に恵まれてのことだと信太郎は思っていた。
「それより先輩、期末で退職されるっていうのはもう確定なんですか?」
今日は個人的に、世話になった先輩をねぎらいたいということで誘ったのだった。
先輩は吹っ切れたような笑顔を浮かべる。
「ああ。がむしゃらにノルマを追いかける生活はもうお終い! 俺もそろそろ40だしさ、もう少し時間に余裕のある仕事をしながら、残りの人生は好きなことをして暮らすんだ」
「好きなことを……」
なんだか心に響く言葉だった。
信太郎も家電は好きだし、人と話すことが好きだから家電メーカーの営業マンになった。けれど他にも、例えば家で料理をするのも好きだし、インテリアにも凝っている。
それからみんなでわいわいキャンプをするのが好きで、明日からの週末も大学以来の仲間とキャンプに行くことになっていた。
好きなことはひとつじゃない。そう考えると今の猛烈な働き方を続けていいのかどうかとも思う。
「俺、部長から一課長になってもらいたいって言われたんです」
ぽつりとこぼすと、隣に座る先輩が勢いよくジョッキを置いた。
「それはすげーな! 部長も思い切ったよなあ。……けど、実績と将来性を加味して水城って選択は間違ってないと思う」
「先輩はそう思いますか?」
曖昧に微笑むと、彼は不思議そうに顔を覗き込んでくる。
「お前は気乗りしないのか?」
「そんなことはありませんが、引き受けるべきなのかどうか。課長になったら課全体の売り上げに責任を持たなきゃいけなくなりますし、管理職だから現場にあまり出られなくなるじゃないですか」
自分の目指していた未来がそれだったのかというと、違う気がしてきた。
「まあ、それはみんな悩むところだよな」
先輩の視線がジョッキに戻っていく。
「会社で出世していくのにも夢があるし、会社を飛び出して好きなことして食ってくっていう手もあるし……。お前ならなんでもできると思うからさ、好きなように答えを出せばいいと思う」
そう言われても人生の選択はなかなか難しい。
にぎわう赤提灯の店で、信太郎はほんの少し途方に暮れていた。
翌日は東京から一旦離れ、大学時代からの仲間と高原にあるキャンプ場に集まった。
「久々のキャンプだよなー!」
ウキウキしながら愛用のテントを広げると、隣に広げようとしている友達のテントが随分大きいことに気づく。
「どうした、水城」
「いや、お前のテントやけに大きいな?」
まだ地面に広げたままの状態だが、床面積からして信太郎のとは違った。
「実は来年子供が生まれるんだ。だから張り切ってデカいのを買ったんだよ」
そう言われてみると、彼の連れてきた恋人は心なしかふっくらしたお腹をしている。
「えっ、それはおめでとう! 結婚は?」
「籍は来月彼女の誕生日に入れて、式は子供が生まれてからだなって話してる」
「そうか。幸せそうで何よりだよ」
父親になるという友人をまぶしい思いで眺めた。
考えてみると信太郎だっていい年だ。同級生の中には結婚した友達も何人かいるし、そうでなくてもみんな彼氏彼女ができていた。
このキャンプ場でも、シングル用のテントを広げているのは自分ひとりだけだった。
「水城は結婚とか考えてないのか?」
「もちろん結婚はしたいよ。早めに結婚して大きい犬を飼うのが夢だったし。嫁さんは自分より頭のいい人で、本とか趣味だといいなって考えてた。ずっと忙しくて忘れてたけど……」
話ながら自分でも驚いてしまった。忙しい日々にかまけて自分の夢すら忘れていたなんて……。
友達は笑って言ってくれる。
「水城なら、その気になればいつでもいい相手が見つかるだろ」
「その気になれば、か……」
“お前ならなんでもできる”と言ってくれた、先輩の言葉とも重なった。
「そうだな! 未来の自分に期待しとく」
明るく言って、新しいテントに苦戦している彼を手伝った。最新型の大きなテントは新品のいい香りがする。
(やっぱり今のままじゃダメだ。俺も新しい何かが欲しい!)
それがなんなのかはまだわからない。けれども今の生活を変えるためには、新しい風が必要な気がした。
キャンプ場には山から下りてくる爽やかな風が吹いている。
その日は仲間と存分に語らい、夜は空の星を眺めて未来に思いを馳せた。
そして東京に戻った信太郎は、“欲しいもの”を見つけた。
趣味で買っていたインテリア雑誌で、古民家が特集されていたのだ。
(いいな。こういう家に俺も住みたい……)
静かな夜の自室で、ページを捲る速度が自然と速くなる。古い柱や梁を活かした室内はノスタルジックでなんとも魅力的だった。
特集記事を一通り読み終え、それからもう一度冒頭から写真を眺める。
すでに頭の中にはイメージが広がっていた。
今の快適なマンション暮らしとは違う苦労はありそうだけれども、少しずつ家に手を入れていくのは楽しそうだしきっと愛着がわく。
残りの人生は好きなことをして暮らすんだ――そんなことを言っていた先輩の、吹っ切れたような笑顔が浮かんだ。
立ち上げっぱなしだったPCで古民家の値段を調べると、地方でなら買えそうだ。ボーナスをつぎ込んで余裕でおつりがくる。
(……買うか……?)
考えたらドキドキしてきた。
まだ誰かいるわけでもないのに、古民家で一緒に囲炉裏を囲む恋人の姿が脳裏に浮かんだ。
(俺が欲しいのはこの景色だ……!)
心の声がそう言った。
今の生活を捨てる不安よりも、新しいことを始めるワクワクが勝っていた。
それから信太郎が古民家を買って地方への移住を決めたのは、この二ヶ月先のことだった――。
暗い夜の森を、いくつものサーチライトが照らしていた。
男たちの足が下草を踏み荒らす。
いつもは静かな森がざわついていた。
「徹平!」
後ろから追いついてきた男に巌徹平は問いかける。
「どうだった?」
「川下の方は警察と消防があたってて、今のところ手がかりナシみたいだ」
「となると山の奥に行っちまったのか……」
今、徹平たち青年部のメンバーは警察に協力し、山に迷い込んだらしい子どもを探していた。
この辺りは集落同士が離れていて森が深い。登山ルートではなかったが、数年に一度は遭難者が出ていた。
「いなくなった子どもは4歳なんだよな?」
メンバーのひとりが首を傾げる。
「4歳の足でそんなに遠くまで行けるもんか? やっぱり川に流されたんじゃ……」
「4歳っつったら怖いもの知らずで冒険したがる年頃だぞ。歩く足取りだってしっかりしてる」
子持ちのひとりが反論した。
「しかし山はどうかなあ。熊にでも喰われちまってたら見つからねえぞ」
そう言うメンバーは、いざという時のために持ち出した猟銃を担いでいる。
「とにかく川下は警察と消防があたってるんだ! 俺たちは山を探すのが役目、わかったな!」
徹平が一喝し、彼らの口をふさがせた。
それからまた森の中、メンバーたちは横一列に隊列を組んで進む。
子どもの名前を呼ぶ声が、何度も闇に響いた。
それから朝方近く――。
大きな木の下で丸くなっている子どもをサーチライトが照らし出した。
「いたぞ!」
徹平が駆け寄って行ってしゃがみ込む。
「おいっ!」
怪我でもしているのかと思ったが違った。子どもは目をこすりながら徹平を見上げた。
「おじさん、だあれ……?」
その様子を見るに、ただ疲れて眠っていただけらしい。
「無事みたいだな!? よかった!」
小さな頭をグリグリとなで、徹平は子どもを抱き上げた。
それから無線で発見の報告をし、警察に引き渡すため子どもを抱いて山を下りた。
ところが警察署に行く前に、山の入り口で待ち構えていた母親が駆け寄ってくる。
「タカくん!?」
「ママ……!?」
「ああ……よかったな、ママが来てくれて」
徹平は子どもを下ろし、親子の感動の再会を見守った。
ところが……。
「こんな小さな子どもをひとりで遊ばせるって、どういう了見だ!」
「子どもを山に近づかせるな! 山は危ねえってことは、ここに住むモンならみんな知ってる!」
「これだから都会モンは……」
夜通し探索していた男たちが苛立つのは無理もないことだった。
ここで母親がひと言謝れば話は済むのだが、若い母親は山男たちの勢いに怯え何も言えずにいる。
徹平が見かねて間に入った。
「それはもういいじゃねえか! この人だって自分の非はわかってる」
「なんで徹平が庇うんだよ?」
「別に庇ってなんかいねえ!」
「庇ってるだろ!」
こんなところで言い合っても仕方ない。
「その話はあとだ、警察に行く」
青年部のメンバーたちに言って、徹平は母親に向き直った。
「俺が車を出すんで、貴女もその子と一緒に来てください。警察が子どもの無事を確認したら、すぐ家に帰れますから」
青年部の探索隊もそこで解散となり、皆は村のそれぞれの家に散っていく。
親子を自分の車へ誘導しながら、徹平はほっと息をついた。
徹平にとってこの村は生まれ育った場所で、青年部の面々は小さい時から知っている気の置けない仲間だ。年上も年下もいるが仲がいい。
一方で、村が仲間内だけの閉じられた環境であっていいとは思わなかった。
だからこそ他の地域との交流事業には積極的に協力しているし、余所から来る人には親切にしたいと思っている。
今車の後部座席で子どもに寄り添っている彼女もそうだ。余所から来たばかりの親切にすべき相手、それだけだったのに……。
「徹平、あの女は人妻だぞ」
翌日の晩酌の時間、ふたりきりになったところで父親から苦言を呈された。
「は? 何のこと言ってる」
「しかも子持ちだ」
思わずビールを噴きそうになる。
「もしかしてあの子の母親のこと言ってんのか!?」
昨日の様子を見て、徹平が彼女に気があるとでも思ったんだろう。あの時山の入り口で待っていた人の中に徹平の父親もいたからだ。
「俺が人妻と不倫でもすると思ってんのか?」
「そうなったら、お前をいつまでも独り身にしていた俺にも責任がある」
「勘違いするなよ! あの人とは何もない」
「信じていいのか?」
「息子の良識を信じろよ……」
「わかった、信じる」
口ではそう言いつつ、父親は別のことを思案している様子だった。
「親父、何考えてる?」
「お前、結婚しろ」
「そう来たか」
徹平ももう三十だ。周囲に結婚のことを言われるのは今回が初めてじゃない。
どう断ろうかという方向に、すぐに思考が働いた。
「そうだ、畳屋のところのおばさんが……」
「そういうのはいいよ。結婚相手は自分で探す」
「なら結婚する気はあるんだな?」
「ああ。心配いらねえから」
徹平は残りのビールをあおって立ち上がる。
「あれ、ビールのお代わりはいらないの?」
ちょうど追加のビールとつまみを持ってきた母親が、不思議そうに徹平を見上げた。
「俺はいいよ」
徹平は台所に自分のグラスだけを下げに行く。
「結婚の話をしたら逃げられた」
父親が母親に言う声が聞こえた。
「そう。あの子にはあの子の考えがあるでしょ」
母親は笑って言っている。
この夫婦は仲がいい。地域の農家を引っ張っている夫とそれを手助けする妻。一見亭主関白なようでその実、妻の方が夫を手のひらの上で転がしているのか。
今の時代では古いのかもしれないが、よくある夫婦の形だった。
(結婚かあ……)
徹平は台所で息をつく。
別に結婚願望がないわけじゃなかった。ただ具体的なイメージが湧かないだけで……。
そこでふとテーブルを見ると、女性向け雑誌が広げてある。
さっきまで母親が料理をしながら見ていたんだろう。開いてあるページでは、夫婦で過ごす結婚記念日が特集されていた。
いつかそんな日が自分にも来るんだろうか……。想像してみる。
徹平のそばにいるのは守ってあげなければいけないようなお姫様ではなくて、働いている普通の女性。そんな想像がなんだかしっくりきた。
自立した者同士が認め合い、困った時は支え合って生きていく。
雑誌の特集が描くようなキラキラした生活ではないのかもしれない。
それでも心を通わせた相手と共に歩めるなら幸せなことに違いない。そう思った。
「徹平は好きにしたらいいのよ。お父さんと違って身の回りのことは自分でできるんだし」
居間から戻ってきた母親が言ってくる。
「うん、ありがとう」
笑って答えた。
今の時代、結婚して両親を安心させるというのも少し違うと思う。結婚さえすれば安泰っていう時代でもないんだから。
それでも愛する人を両親に紹介することができたら……。それはそれで幸せなことなんだろうなと徹平は思った。
そんな矢先のことだった。
町が主導している交流事業の手伝いを頼まれ、徹平は役場に向かった。
「ああ、徹平くん! 来てくれたか」
まちづくり課の担当職員が、いつものように手招きする。
「お疲れ様です」
フロアの隅にあるテーブルの前でふたりは向かい合った。
「いつも助かるよ。徹平くんや青年部のみんなが手伝ってくれて」
職員はニコニコしながら、テーブルの上に広げてあったパンフレットを片付ける。
「そういえばこの前、山に迷い込んだ子どもを見つけたのも君たちなんだって?」
「ええ、見つけられてよかったです」
「うちみたいな小さな町は、徹平くんたちみたいな若者が積極的に自治に参加してくれないと成り立たないよ」
それにこのご時世だ。役場も経費削減でボランティア頼みなことを徹平も知っていた。
「それで今回は、中学の先生の交換研修でしたっけ?」
概要は事前に聞いていたので自分から切り出す。
「そうそう。その先生との連絡係をお願いしたいんだ。連絡っていっても今はみんな携帯電話を持っているから、御用聞きみたいなものかな。先生がこっちでの生活に困らないようフォローして、何かあったら役場に繋いでほしい」
「わかりました」
それから軽く説明を受け、徹平がやることを理解したところで職員が切り出す。
「それでお願いしたい先生はこの人なんだ」
クリアファイルに挟まれた履歴書を見せられた。
「これは個人情報だから渡せないんだけど、当日迎えに行って会えないと困るから、名前と携帯番号だけメモしていってくれる?」
(あれ……?)
メモを取ろうとした時、目に入った履歴書の写真が気になった。
「ん、知ってる人?」
「……いや、まさか」
「そうだよね」
話しながら書類の隅にメモを取り、バッグにしまう。
「そうだ、このあと農協に寄らなきゃいけなくて」
「ああ、長々と引き留めてしまって悪かったね。何かわからないことがあったら電話して」
「わかりました」
職員に頭を下げて役場を出た。
どうして履歴書の写真が気になったのか。
ぱっと見た印象は感じのいい女性だったけれど、特別美人というわけでもなく、誰か知り合いに似ているというわけでもなかった。
ただ心に引っかかるものがあった。何かひらめいた時の感じに近いかもしれない。
(一目惚れ?)
そんなことじゃないと思いつつも、その言葉が頭に浮かんだ。
(なんだろう、でも……これはもしかして……)
車に戻りかけていた徹平は、振り返って役場の建物を見る。
緑の山を背景に、爽やかな夏の風が駆け抜けた――。