それはいつもどおりの昼休みだった。学園祭が終わり、ようやく平穏を取り戻した雨見学園。だけど教室に駆け込んできたある一つの足音によって、その平穏は物の見事に破られる。
助けを求めてきた未喜を見て、菜々子は思わず頭を抱えた。確か一昨日もタイガーは無理難題を言い出して、清司郎と揉めたばかり。今度は一体何を言い出したんだろう? とハラハラしつつ、菜々子は未喜と共に急いで生徒会室に向かったのだった。
生徒会室に駆け込むと、大河と清司郎はまさに一触即発状態だった。鼻と鼻の頭を突き合わせ、至近距離でギンギンに睨み合う二人。菜々子は大河を、未喜は清司郎の体を後ろから押さえつけて、何とか二人の距離を離すことに成功した。
清司郎は眉間に縦皺を三本も作りながら、大河の前にビシッと人差し指を突き立てる。
清司郎はどこからか生徒手帳を取り出すと、大河への百か条を読み上げ始めた。
大河はグシャグシャと髪を掻き乱すと、まるで駄々っ子のような態度で生徒会室を出ていった。その場に一人残される形になった菜々子は、いたたまれない気分である。
菜々子が深々と頭を下げるのと、清司郎のこめかみが引き攣るのは、ほぼ同時だった。清司郎を取り巻く空気がピリピリと尖っているのを感じて、菜々子の体はますます萎縮してしまう。
未喜に指摘されようやく頭が冷えたのか、清司郎もそこで表情を和らげた。菜々子はもう一度、二人に向かって頭を下げる。
またまた清司郎の機嫌が急降下するのを感じて、菜々子の背中にはイヤな冷汗が滲んでくる。
何気ない清司郎の指摘に、菜々子はドキリとした。確かにこんな風に毎度毎度大河の尻拭いをするのは菜々子の役目になりつつあったから。
未喜はそう無邪気にはしゃぐけれど、菜々子は何がうらやましいのかさっぱりわからなかった。なぜなら菜々子は大河のお母さんじゃなくて恋人だ。むしろ女としては大河に甘えたいくらいなのに……。
その後、生徒会室を出た菜々子は大河を探して、裏庭方面に向かった。案の定、大河は芝生の上に寝転がりながら、しきりにスマホをチェックしている。
菜々子が駆け足で近寄ると、大河はいつものようにニッと口角を上げて起き上がった。菜々子は大河のくせっ毛に芝生がくっついてるのを見て、丁寧に掃ってやる。
何気なく大河のスマホの画面を横から覗き見してみれば、メールボックスは元気の名前で埋まっていた。どうやら遠く離れた親友との交流は続いているようである。
だが大河はと言えば、菜々子のそんな乙女らしい悩みにちっとも気づかないようだ。まるで子供のように唇を尖らせて、清司郎への不満をぼやいている。
菜々子のアイデアを聞いた大河は、瞳をキラキラと輝かせて立ち上がった。一度こうと思い立ったからには、即実行に移さないと気が済まないのが大河である。
菜々子の制止の声も聞かず、大河はまるで風のように走り去っていた。一方、その場にひとり取り残された菜々子は、ほんのちょっと泣きたい気分になる。
菜々子の小さな呟きは、誰に聞かれることもなくそよ風の中に溶けていく。
こうして誰もいない場所で二人きりになっても、大河とちっとも甘い雰囲気にならない。
それどころか大河の態度は恋人になる前となった後では、それほど大差がなくて……。
これじゃあ清司郎の言う通り、自分はまるで『大河の世話を焼くお母さん』だ。
(こんなこと……思っちゃだめ……だよね)
大河の前で不安を口に出せないのは、10年前のあの事件があったから。あれ以来、菜々子は自分の気持ちを押し隠すことに慣れてしまった。高校生ならば当たり前の、ちょっとしたわがままを言うことさえ、今の菜々子は躊躇ってしまうのだ。
それからしばらく、菜々子はカレー大食い大会を開催しようと奔走する大河に放っておかれてしまった。それでも菜々子が大人しく我慢していたのは、今月末の三連休こそは大河と一緒に過ごせると思っていたからだ。だけど三連休が近づいたある日、その期待さえもあっさり裏切られることになってしまった。
『あ、菜々子? あのさ、俺、来月のバスケ部の試合でスタメンに選ばれてんだ。だからお前にスーパーカッコいいとこを見せるためにも、軍艦島で修業してくるわ! 俺のファイアーパワフル超ドリブルダンクシュート、期待しておけよ!』
突然大河からそんな内容のメールが届いて、菜々子は仰天した。菜々子にしてみればファイアーパワフル超ドリブルダンクシュートをカッコよく決める彼氏よりも、休日に自分のそばにいてくれる恋人の方が、よっぽど貴重である。
(もう、タイガーってば何考えてるの!? せっかくの連休なのに、私のことなんてどうでもいいの!?)
さすがの菜々子も、数日放っておかれた鬱憤は溜まっていたらしく、普段ならば『分かった。じゃあ気をつけていってらっしゃい』と物分りのよい返信を送っていたはずだが、この時ばかりは全く違う内容のメールを返してしまった。
『わかった。じゃあ私も行く! タイガーと一緒に軍艦島に修業しに行くからね!』
そして月末の三連休、菜々子と大河は都会から遠く離れた軍艦島にいた。青い水平線付近には、白いカモメが群れをなして飛んでいる。
大河ははるばるこんな場所までついてきてくれた菜々子に感動して、いつにも増してハイテンションだ。頬は真っ赤に紅潮し、先ほどからずっとフンフンと鼻息を荒くしている。
一方の菜々子はと言えば、大河と比べると明らかにローテンション。ついムキになって軍艦島まで着いてきてしまったが……。できれば連休はもっとロマンティックな場所でデートしたかった――というのが、偽らざる本音である。
だけど案の定、空気を読むことを知らない大河は、菜々子を前にして張り切るばかり。乙女心をちっとも理解していない恋人に、菜々子はさらにヤキモキすることになったのだった。
大河は急にその場に座り込んだかと思うと、右手と左手の間に挟んだ棒をぐりぐりと高速回転させる。さすが自慢の馬鹿力……と思いきや、煙が出て来たのは火起こし棒の先ではなく、タイガーの手の中からだった。
結局、ガキ大将のように消毒液をいやがるタイガーに、菜々子は散々苦労する羽目になった。
そう言って、次に大河が連れてきてくれた場所は、島のはずれの小さな入り江。タイガーの手には元々用意されていた釣竿が2本握られてる。
元気よく腕まくりするタイガーに、菜々子もついつい口元をほころばせる。
その後、テトラポットの上で釣り糸を垂らし、二人で釣りをすること3時間後――
テントへと戻る途中も、大河は深く落ち込んだままだった。手にしたバケツには魚が10匹以上入っている。だがそれは全部菜々子が釣り上げた物なのだ。
可愛い恋人にカッコいいところを見せられなかっただけでなく、その恋人に男のプライドをバキボキへし折られてしまった大河であった。
……。
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……。
…………。
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……かくして。大河のサバイバル教室は大河が暴走して、その度に菜々子がフォローする……という結末に終わった。
その後、薬を飲んで体調が戻った大河は、菜々子が念のために用意しておいたカップラーメンを美味しそうに頬張った。すっかり辺りが夕暮れ色に包まれる時刻のことである。
焚き火を前にしながら、タイガーはホクホク顔だ。しかしそれとは対照的に菜々子の表情は先ほどから硬い。今日一日大河に振り回されて、とうとう堪忍袋の緒が切れてしまったのかもしれなかった。
そう質問されて、ようやく暢気なタイガーも、菜々子の様子がいつもとは違うことに気づいた。周りが暗くてよく見えないが、菜々子はどうやら唇を強く噛みしめているようだ。
菜々子の声がだんだん震えがちになっていって、さすがのタイガーも食べかけのカップラーメンを脇に置いた。腰を浮かせて困り顔で菜々子に近づくが、菜々子は大河の手をパシリと払いのけてしまう。
とうとう今までの不満を一気に爆発させた菜々子は、その場を立ち上がって大河の前から逃げ出した。まさか菜々子に『大嫌い』なんて言われるとは思っていなかった大河は、ショックのあまり一瞬呆然としてしまう。
――が。
あっという間に廃墟の中に消えて行く奈々子を心配して、大河も全速力で走り出したのだった。
(タイガーのバカ! バカ! やっぱり私はタイガーにとってお母さん的な立場でしかないの? 自分の世話を見てくれる女の子なら誰でもいいの?)
すっかり頭に血が上ってしまった菜々子は、暗い廃墟の中を闇雲に逃げ回っていた。冷静になればそんなことはあるはずないとわかっているのに、逆巻く感情のせいで自分自身をコントロールできない。今までこんな風に感情を爆発させたことなど、ただの一度もなかったのに。
(なんで私、こんなに怒ってるの? 元々一人は慣れてたはずでしょ? 我慢することには慣れてたはず……)
菜々子は大きくしゃくり上げながら、ようやく走るスピードを緩めた。泣くほど興奮したせいで心臓が激しく波打っている。胸元に手を添えてゆっくり呼吸を整えれば、ようやく頭の中もクールダウンしはじめた。
(タイガーのことを考えると、いつも私、こんな風に胸が苦しくなる。でもそれはタイガーのことが好きだから……。もっともっと私のことを見て欲しいから……)
菜々子は自分がこんな風に取り乱したことをみっともないな、と改めて思う。
だけどこんな風にみっともないのが恋かもしれない……と思う。
子供の頃、シノバスセブンを結成した頃の菜々子と今の菜々子は変わってしまった。あの頃はこんなに大河を好きになるなんて、思ってもみなかったから。
そうしてタイガーの名をポツリと呟けば、自分が暗闇の中にたった一人きりでいることに気づかされる。さっき『大嫌い』と言って自分から逃げたくせに、もう大河の顔が見たくてたまらなかった。
あのお日様みたいな明るい笑顔で大丈夫だと笑って欲しい。
あの逞しい腕で、ぎゅっと抱きしめて欲しい……。
なんだかんだ言っても、やっぱり菜々子の心はタイガーを求めてるのだ。
その時だった。当てもなく廃墟の中を歩く菜々子の背後から、タイガーの焦った声が響き渡ったのは。
驚いて振り向いた時、廃墟の隙間から月光が差して、菜々子は自分がどんな場所にいるのか気づかされた。今まで暗くてよく見えなかったが、菜々子は大きく床が崩れたフロアの端に立っていたのだ。
不意にバランスを崩した菜々子は、そのまま暗くて深い穴の中に吸い込まれそうになった。だがそこは運動神経抜群の大河。大きくジャンプして突進してきたかと思うと、咄嗟に菜々子の手首を取って、その体ごと自分の腕の中に抱き込んだのだ。
間一髪の所を大河に助けられた菜々子は、眦に涙を滲ませながら頭上の大河を見た。すると大河は息を弾ませながら、切羽詰ったような表情で奈々子を見つめている。
――フワリ。
頬を真っ赤に染めた大河は、そのまま菜々子の頭ごと強く抱え込んだ。至近距離にいるせいか、トクトクトクトクと早い大河の心臓の音が聞こえる。
さらに抱きしめられながら、大河の口からは熱い愛の告白が飛び出して。
それを聞いた菜々子は、とうとう大粒の涙をあふれさせた。
――ごめんなさい。タイガー。ごめんなさい……。
何度もそう謝る奈々子の背中を、大河はいつまでも優しく撫でてくれたのだった。
その後、満天の星が瞬く時間になり。菜々子はタイガーに寄り添いながら、夜空を見上げていた。
遠くからは、ザザーン、ザザーン……と静かな潮騒の音が聞こえてくる。場所的には全然ロマンチックじゃないけれど、タイガーがそばにいてくれれば、菜々子にとってはそこが天国だ。
しかも大河はあんなことがあったにも関わらず、いつも以上に優しい瞳で菜々子のことを見つめていた。訳がわからない……と言う風に首を傾げれば、大きな右手がそっと菜々子の頬に添えられる。
菜々子はタイガーの言葉に目を瞠った。自分でも自覚していたことだけど、まさか大河もその事実に気づいてくれていたなんて……。確かにああして癇癪を起こしたこと自体、菜々子が精神的にタイガーに甘えられるようになった……と言う証拠なのかもしれない。他の誰相手でもこんな気持ちにはなったりしない。菜々子にとっては大河だけが特別だから。
さらにぎゅっと強く手を握られて、菜々子は再び泣き笑いの顔になった。
頬を伝う涙を拭いもせず、そのまま大河の胸の中に飛び込む。